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15 May
2006
ショパン ピアノ協奏曲第1番
私が会社でお世話になっている上司は、奥様がピアノの先生だということもあって、やたらとピアノ曲に詳しい。私は決して器楽曲に詳しいほうではないのだが、仕事の合間や飲み会の場でこの方と話していると、おのずと話題はピアノの話へとなっていく。
ある飲み会でこの上司の“夢”を聞いて驚いたことがある。なんと、五年に一度ポーランドでおこなわれる「ショパン・コンクール」を第一回戦から決勝まで全て聴衆として聴きとおしたい、というのだ。
このコンクールの期間は、ざっと3週間。まず第一回戦として80名ほどがショパンの作曲したピアノ・ソロ小品を数曲ずつ演奏する。そこから選抜された30人ほどが、比較的大規模なピアノ・ソロ曲を演奏して、決勝へと進む十数人に絞られる。そして決勝では、ショパンのピアノ協奏曲(2曲あるので、どちらか一方)を演奏し、優勝者が決まることになる。上司はその最初から最後までを聴きたいという。マニアにも程がある。
その上司がショパンのピアノ協奏曲に関して曰く、
「あの、曲が始まってしばらく続くオーケストラの演奏の間、手に汗握って待ってるピアニストの緊張感がいいんだよぅ」
おいおい、待ってくれ。ちゃんと“協奏曲”として聴こうよ。オーケストラ音楽ファンの私としては、そのあまりのオーケストラの扱いの粗末さに意義を唱えずにはいられない。
「ちゃんとオーケストラも聴いてくださいよ。」
「そんなぁ。あの曲で、オーケストラの部分を聴いてる人なんていないよぉ。」
「いや、まあ確かに、ショパンの協奏曲は、オーケストラ・パートの完成度はいまいちですけど…。」
「そうなの? 誰もそんなの気にしてないよ。そんなの気にするの、ヘンだよ。」
いや、ヘンではないと思う、現にツィマーマンなんか…と言おうかと思ったが、言っても仕方ないので話題を変えた。
ただ、上司の言い方はいささか極端だとしても、ショパンのピアノ協奏曲が「ピアニストの、ピアニストによる、ピアニストのための協奏曲」だということは確かだと思う。第1番も第2番も、ピアノ・パートの入念な書かれ方に対して、オーケストラ・パートは響きが単調で、意外なほど繊細さがない。明らかに、常に音楽をひっぱっていくのはピアノで、オーケストラは添え物としての役割しかもらっていない。作曲された動機が、20歳そこそこだったショパンがピアニストとしての自分を売り込むための自作自演用、ということも一因なのかもしれない。でも、同じくピアニスト兼作曲家だったラフマニノフも、バルトークも、もうちょっと丁寧にオーケストラ・パートを書いてるんだけどなぁ。
その証拠に、といってはなんだが、数多いショパンの協奏曲を録音したCDを並べても、これだけ有名な曲であるにも関わらず、欧州3大オーケストラ(ベルリン・フィル、ウィーン・フィル、アムステルダム・コンセルトヘボウ)が伴奏をつとめたものが一枚も見当たらない。そして、あんなに膨大な録音を残したカラヤンもバーンスタインも、この曲は振っていないようなのだ。きっと、やる気がおこらなかったのだろう。
さて、そんなこんなを踏まえつつ、今回はショパンのピアノ協奏曲から、第一番の録音を私のCDラックから引っ張り出して聴き比べ、としゃれこんでみるぞ。
とはいえ、この曲を聴いたことない、という方も多いだろうから、最初にリファレンスとして、往年の名ピアニスト、ニキタ・マガロフの演奏で、第2楽章の一部を聴いてみよう。
この演奏に関してなによりもまず印象的なのは、マガロフが一定のテンポで、ひとつひとつの音をかなりきっちり、はっきり弾いていること。露骨な抑揚やテンポ切り替えを伴う表現がまったく使われないぶん、この曲の持つありのままの美しさがストレートに伝わってくるように感じる。
ニキタ・マガロフ(1912-1992)は、いわゆる「ショパン弾き」として名を馳せたピアニストだったそうで、長年にわたってショパン・コンクールの審査員もつとめていた。そういった「ショパンに一家言ある」ピアニストの持つ自信が、確信に満ちた鍵盤のタッチへと繋がっているのかもしれない。しかも、その自信が、奇抜な自分自身の解釈を前に押し出すのではなく、ひとつひとつの音符から丁寧にニュアンスをすくいあげていく形に昇華されているあたりが気持ちいい。以降に掲載する同曲の演奏の中には相当個性的なものも存在し、またそれはそれでとても面白いのだが、そんな演奏をさんざん聴いたあとにふとマガロフの演奏を聴き返すと、なんだかほっと安心できたのも事実。
この演奏とどう違うか、という点に注目しながら聴くと、たった1分の抜粋ではあるけれど、それぞれの“芸風”の特性をなんとなく感じることができるかもしれない。
そのマガロフ審査員のもとで、1965年のショパン・コンクールに優勝したのがアルゲリッチ。
彼女の演奏を聴くと、ショパンのピアノ協奏曲にはこんな「ドラマ」があったのか、ということに驚く。開始から、その熱っぽさ、推進力の強さが尋常ではない。強い意志を漲らせて、やや前のめりの姿勢でどんどん自分自身の道を切り開いていくような雰囲気だ。
そして、音楽は第一楽章、第二楽章とさまざまな状況を潜り抜けていくことでますます高揚し、ついに最終楽章後半で軽やかに離陸を遂げる。奏者と聴き手の精神は大きな翼を得て天空を自由に駆け回り、喜びの頂点を謳歌する。大袈裟かもしれないが、概してそんなかんじ。
極端に言えば、音楽のテーマ、そして演奏のアプローチには、物語的なものと静止画的なものがあるだろう。音楽は時間の芸術だから、当然、事象や精神の変遷をドラマチックに演出することが主眼となるアプローチが成立する。しかし同時に音楽は空気を音響で染めるという行為でもあるから、なにか風景画的な空気感とでも言うべきものを伝えることもできる。もちろんすべてがそれらに二極化するわけではなくて、あくまでその両者のバランスで成立しているわけだけれども、誤解を恐れずに言えば、アルゲリッチの演奏はショパンのピアノ協奏曲における「物語的アプローチ」の最右翼だろうと思う。聴き始めると、グイグイと引き込まれ、圧倒されて、一気に最後まで聴き終えてしまう。そして聞き終わった後に大きくひとつ息をつきたくなる。
後にベルリン・フィルの主席指揮者となるアバドの伴奏もさすがにお見事で、美しく鳴らすというよりは、劇的な表現に徹し、アルゲリッチのアプローチをオーケストラで巧みにサポートしている。この曲としては異例なほど、「協奏曲」感があるように感じる。
さて、オーケストラ・パートの充実といえば、絶対に挙げねばならないのがツィマーマン盤。ツィマーマンは1975年のショパン・コンクール覇者であり、出身地はショパンと同じポーランド。
それだけに、ツィマーマンのこの曲に対するこだわりは並大抵のものではない。なんとこのポーランド祝祭管弦楽団は、ショパンのピアノ協奏曲を演奏し、録音するためだけに彼が組織し、膨大な時間の練習を課したオーケストラらしい。しかも、演奏は彼の弾き振り(ピアノと指揮を同時にする)という徹底ぶり。
そのこだわりは、演奏を聴き始めるや否やすぐに聴き手にまで届いてくる。冒頭のオーケストラによる主題提示からして、テンポ設定、強弱の付け方、なにからなにまで他の演奏とは明確に違う。前にも書いたとおり、この曲のオーケストラ・パートは元来単調で面白みに欠ける。ところが、この演奏では、楽譜の解釈にかなり幅を持たせ、オーケストラを綿密かつ大胆にコントロールすることで、豊かなニュアンスを引き出すことに成功している。
以下に、第一楽章冒頭の30秒をマガロフ盤と並べてみた。ツィマーマンの指揮するオーケストラが常になにかを訴えてくるのがここを聴いただけで一目(?)瞭然。
これと組み合わさるツィマーマンのピアノも、小憎らしいくらいに上手い。信じられない程美しい音で、夢見るように歌う。なんというか、手練手管の限りを尽くして垂らしこむ、といった風情だ。このスケベさを是とするか非とするか、もうこれは各人の価値観以外のなにものでもないだろう。
私は音楽評論の類を読むのが大好きなのだが、この録音に関する世間の評価はまさに真っ二つ。ここまで見事に割れているものは、他に見たことがないくらいだ。「これ以上のものは考えられない」という評の一方で、「こんなものを推薦する人の気がしれない」という評もある(ちなみに、両方ともプロの評論家)。悪く言う方は、オーケストラがクドすぎる、とか、ひとりよがりが過ぎる、と不満を述べているようだ。なるほど、私の上司によれば、「この曲でオーケストラ・パートを聴いているひとなんていない」らしいので、そこを充実させたところで、そんなこと誰も望んでいないよ、ということなのかな。
いずれにせよ、評論家の先生達も無視することはできない録音であることは確かなわけで、ショパンのピアノ協奏曲が好きな方は、自分がどっちの陣営に属するか、是非お試しあれ。ちなみに私は、このスケベさ、嫌いじゃないぞ。
小憎らしいくらいに上手いピアノという点ではキーシンもまたすごい。ツィマーマンとはちょっと意味が違うけれど。
驚くなかれ、この録音をしたときのキーシンの年齢は実に12歳。日本で言えば小学生。それでいて、この演奏の完成度は「12歳なのに」という接頭詞が全く不要ときている。むしろ、12歳であることがプラスに作用しているようにさえ聴こえる。
子供であることのメリット、それは、将来に対して何の迷いもない夢を抱いていることだと思う。ショパンの書いた幸福に溢れる響きを素直に堪能しつつ、常に「この先にはなにが待っているんだろう」という希望に胸を膨らませ、無邪気に前に前にと駆け出す純真さは、大人には到底真似できないように感じられる。
例えば、ツィマーマンも美しい響きを堪能しているには違いないが、「ああ、うたかたでもいいから、この幸福に一瞬でも長く身を浸していたい」という“時間よ、止まれ”的な雰囲気を感じる。たぶん、これが一般的な大人の考え方なのだろう。それに対し、キーシンは眼前に広がる花畑に果てがないことに関して一点の疑念もない。無垢な笑顔をたたえて全力で走り、転げまわる。すっかり大人になってしまっている私たちにとって、この演奏が持つ澄み切った心の眩しさは衝撃的ですらある。
まあ、冷静に聴くと…いや、別に冷静にならなくても、あまりの表現力、テクニックの完成度に、気味の悪い子供だぁ、とは思う。神童ってのは実在する、という見聞を広げる意味でも、どうぞ。
ただし、子供にピアノを習わせているお母さんは聴いちゃいけません。こんな12歳がいることを知ってしまうと、お稽古代を払うのが馬鹿馬鹿しくなってしまうでしょう。もしくは、これを我が子に聴かせて「世の中にはこんな子もいるんだから!」と叱責するお母さんが現れるやもしれず、そうなると子供にとっては悲劇なので。
また、同じような理由で、子供自身が聴くのもマズいかもしれない。
では、もしピアノを習う子供が「ショパンの曲が聴きたいのぉ~」と言ってきた場合、誰の演奏を聴かせるのがいいだろうか。
私が親なら、迷うことなくルービンシュタイン。
一昔前までは、ショパンといえばこのひと、と真っ先に名前が挙がった大家中の大家(ちなみに録音時の年齢は74歳)。演奏の内容も、「教科書的」という表現がピッタリじゃなかろうか。
ピアノの音に関しても、表現に関しても、隅々まで伸びやかで、どこにも萎縮したところがない。ひとつひとつの音符に均等かつ隈なく光が当てられ、どこにもやましい所はございません、間違いはございません、と嫌味なく主張しているし、聴き手もそこに疑念を挟む人は殆どいないんじゃないかと思う。「正しく、明るく、健康的」。まさに義務教育の教科書に載っている文章を思わせる。
大概の親なら、子供はこういったものに触れながら成長していってほしいと願うだろう。子供が「ちょっと真似してみようかな」と言い出しても、安心して「どうぞどうぞ」と言える。
ピアノ協奏曲に限らず、ショパンのピアノ・ソロ曲に関してもルービンシュタインは膨大な録音を残しているが、それらについても私は全く同じことを感じる。お手本のような上質の演奏が粒ぞろい。
ただ、突っ込んだ感想をいうと、ルービンシュタインの演奏はあまりにも模範演技過ぎて、例えば夜想曲を1番から19番まで通して聴こう、というような聴き方をする場合は、途中で食傷気味になってきてしまう。特定の一曲を切り出して聴いた場合は素直に「素晴らしいな」と思うのだけれど。そういう意味では、後に挙げるアラウの演奏とはちょっと違う。
対して、子供に絶対聴かせてはならない演奏の最右翼がフランソワ、だと思う。これは、子供が真似しだすとたぶん親は困ってしまう。
フランソワの演奏をひとことで表現するならば、「キザ」の一語に尽きるんじゃなかろうか。
例えば、この人は、装飾的な16分音符の扱いにかなり特徴がある。上に抜き出した演奏でも確認できるが、細かい音符をわざと早口に、しかもそれぞれの音符の切れ目をハッキリさせないでキラキラキラッとまとめて鳴らしてみせるのだ。その捌き方が妙に小洒落れていて、イヤミな程の華やかさを演出している。
それに限らず、楽曲全体を通じて気まぐれにテンポを変えるわ、さりげなく見得を切るわ、とやりたい放題ながら、なんだかそれがいちいちサマになっているようにも聴こえるあたり、最近流行りの「ちょい悪オヤジ」の資質充分かもしれない。
ところが、この野郎、スカしやがって、と一種鼻持ちならないものを感じながらも、なんというか、クセのあるチーズみたいなもので、ハマると時々無性に身体が欲してしまうのも事実なのだ。ただし、クセは相当強いので、彼の演奏スタイルとこっちの好み、それからこっちの体調がピッタリと歯車がかみ合った場合に限り、心の隙間にフッと入り込んでくる。こっちの体調が変化すると、また受け付けなくなることも多々あるのが面白いところ。
ピアノ・ソロ曲で言えば、彼も夜想曲の全曲録音を残しているが、その中でも10番以降の作品が、私の場合、仕事で疲れきったときに聴くと妙に心に沁み渡る。他のどんな演奏家で聴いても味わったことのない気分になる。しかし、健康万全の状態でそれらを聴きなおすと、いつも「ありゃ?」と思ってしまうのだった。なんだか不思議な演奏。
試しに、ルービンシュタインとフランソワの「夜想曲第10番」を並べてみよう。両者のテンポ感や、ひとつひとつの音符に対する考え方の違いが聴こえて楽しい。
ね、子供に聴かせたいのはルービンシュタインでしょう? フランソワは分別のつくオトナ限定の一品なのかもね。
ただ、ルービンシュタインもフランソワもそれぞれ素晴らしい演奏であることに疑念の余地はないのだけれど、ショパンの夜想曲全曲録音で最も私自身が偏愛しているのは、クライディオ・アラウによるものだ。そのアラウも、ピアノ協奏曲の録音を残している。
もう7~8年も前のことになるが、ピアノが得意な友人が寄こした私宛のメールに、「最近聴いている、アラウのショパンがすごい!」と書かれていたことがあった。彼の「他のどんな演奏家と較べても、彼の演奏には『音楽』がある」という表現が妙に心に残って、私もアラウのショパン録音を聴いてみることにした。
そして、手に入れた夜想曲の録音を聴き、私は瞬く間にノックアウトされたのだった。先ほどルービンシュタインとフランソワで聴いた第10番も、アラウが弾くとこうなる。
彼のショパン演奏で特筆すべきは、一音一音に込められた意味合いの深さ、そして重さ。ベテランの名優が見せる重厚な演技にも似て、ちょっとした一言にも、それまでその人が経験してきたあらゆる喜びと悲しみが色濃く反映されているように聴こえる。彼の夜想曲全曲をこれまで何度通して聴いたかわからないが、そのたびに、この中には人間が生きていく中で経験する殆ど全ての感情が詰め込まれているのではなかろうか、なんて考えてしまう。
協奏曲録音でも全く同じことが言える。
ピアノが示す一挙手一投足になんともいえない陰影があり、滋味深い。
もっとも、アラウの持つ音楽性が、若いショパンが書いたこの曲自体のキャパシティーを殆ど超えかかっている、という印象もなくはない。名優の存在感がドラマ全体の印象を食ってしまう、あんなかんじだろうか。
さてさて、今回これを書くために我が家のCDラックを漁った結果発掘されたショパンの協奏曲第1番の録音は計8種類だったのだが、では、それらの中で私個人が一番よく聴くのはどれでしょう、というと、実は次に挙げるクン=ウー・パイク盤になる。
よく行くCDショップの店内でかかっていた、というのがこの盤との出会いだった。
まず耳を奪われたのが、力みのないオーケストラの素晴らしさ。ツィマーマン盤のように大げさな身振りをしているわけでもないのに、なぜか「単調でつまらない」という印象を受けないのが不思議だった。巧まずして自然な流れを引き出していて、ピアノとのバランスもうまくツボに入っている。
そしてピアノも粒立ちのいい美しい音色で、音楽の流れに全く無理がない。甘さや暖かさは控えめの硬質なタッチながら、繊細な表情やダイナミックな躍動感に事欠かず、ショパンの音楽を聴く喜びを余すところなく聴き手に伝えてくれる。
こりゃすごい演奏じゃないか、と思ってカウンターにディスプレイされたCDを確認してみて、ある意味納得。伴奏をつとめるヴィト指揮のワルシャワ・フィルというのは、例のショパン・コンクール決勝で演奏するオーケストラだ。世界のどのオーケストラよりも、一桁も二桁も多くこの曲の演奏経験のある人たちなのであった。そりゃ、押すとこ、引くとこ、全部わかってるわな。
ピアニストのクン=ウー・パイク(白建宇)はフランス在住の韓国人。なぜか知名度はそれほど高くないが、気になって、プロコフィエフの協奏曲
など他の録音も聴いてみたところ、相当なテクニックと、シャープな音楽性を持った才気溢れる音楽家とお見受けする。韓国の音楽家なんてチョン・キョンファとチョン・ミュンフンくらいしか知らなかったけれど、こんなすごい人がいたなんて。いつか生で演奏を聴きたいぞ。
そういえば、今年の秋に大阪センチュリー交響楽団のコンサートで梯剛之がこの曲を演奏するな。聴きに行こうっと。
今回はずいぶん長くなった。ここまで読んでくださった方、お疲れ様でした。
25 June
2006
14 August
2006
16 August
2006
オーケストラ編曲ものといえば…
「ねーねー、こんな聴き方したら、すげぇ面白かったのー」というオタクの落書きで結構楽しんでいただけたようで、私もうれしいです。今後も、ラックに並んだCDをいじっていて面白いことを見つけたら、音付き日記をぽつぽつ書きます。
で、先の日記では「ピアノ曲からの編曲」ではなかったから取り上げなかったんだけど、実は「編曲もの」で私の一番好きなのって、下にあげるこの曲なんですよね…。
ご存知(?)、「八木節」ですよ(原曲はこのあたりでどうぞ)。この曲は、NHK交響楽団が外国ツアーをするときのアンコール曲として、作曲家兼指揮者の外山雄三氏が書き上げた作品。抜き出したのは音楽の終結部です。
取り上げられているのは「八木節」だけではなくて、音楽冒頭ではいきなり「あんたがたどこさ~」と手毬歌が流れ出し、その後「炭坑節」(「月が出た出た~」ってやつです)やら、「ソーラン節」やらが次々にオーケストラでご機嫌に繰り出されてくるわけです。要するに、オーケストラによる日本民謡メドレーですね。
なんか、純粋に楽しくて、聴いていると元気が出るんだよね。
私は接したことがないけど、最近は外国のオーケストラが日本に来たときのアンコールとしても演奏されることが度々ある模様。
オーケストラを使った「編曲物」の中でも屈指のインパクトがある代物じゃないかと。たまに、無性に聴きたくなるんです。
20 September
2006
みなさん、Javaの環境ってインストールされてます?
ここ数週間、こつこつとソフトを自作していた。もうちょっといろんな環境でテストが必要かもしれないけれど、まあだいたい目処が付いたので公開しようと思う。
ソフトを組もうか、と考え始めた切っ掛けは、前回の「音盤聴き比べ」だった。
あそこに載せる音素材を作成するときは、CDから音源をリッピングして適当にトリミングし、lameエンコーダーに食わせてMP3ファイルに変換している。圧縮音楽を作成するときの常として、問題になるのはMP3のビットレート。このblogを運用しているのは記憶領域にCFカードを使った小さな自宅サーバーなので(要するに記憶容量がデジカメ並なわけだ)、少しでもいいからファイルサイズを小さくしたい。そもそも、CDの売上げを減らす意図はまったくないので(むしろその逆?)、あまり高音質で聴けるようにするつもりは毛頭ない。そんなわけで、いつも64kbpsくらいのビットレートのものを用意してきた。
しかし、オーケストラ版の第九交響曲をエンコードしたときに、その出来上がりを聴いてさすがに閉口したのだった。
これはさすがにひどすぎるんじゃないかい。なんの楽器が鳴っているのかもわからんじゃないか。しかも、あきらかに元の音源にはない音が聴こえる。キーキーと高調波みたいな雑音が耳障りだ。ちなみに、エンコードに用いているlameというMP3エンコーダは高音質で有名で、私の経験からいってもそれは間違いないと思う。そのエンコーダの最高音質設定で時間をかけて圧縮してもこの程度の音なのだ。
以前いろいろ試してみたことがあるのだけれど、MP3という圧縮形式は、128kbpsを下回ったあたりから、見るも無惨に急激な音質の悪化をみせるようだ。しかも、音が籠るとかステレオ感がなくなるとかいう悪化ならまだいいが、上で聴くように、耳障りな高調波が乗って、音がいびつに歪むというふうに、非常に不快な劣化を示す。
その点、WMA(Windows Media Audio)やOgg Vorbisといった、MP3に追い付け追い越せと開発された後発の圧縮形式は、低ビットレートでの音質が劇的に改善されているという噂。しかし、さすが先行者とでもいうか、MP3は再生がサポートされている環境が後発に較べて圧倒的に多い。例えば、flash playerが再生をサポートしている圧縮音楽はMP3だけだ。だからMP3のプレーヤーならflashの開発者はものすごく簡単につくれる。「音盤聴き比べ」ではもっともシンプルな「Flash素材&Flashゲーム工房」製のものを選んで使わせてもらっているが、まあ似たようなものはGoogleに訊けばたくさん出てくる。手軽さは強い。多少の障害ならまあいいかと思わせてしまう。実際、私もそう思っていた。
で、そのとき、ほんの戯れに例の第九の音源をogg vorbisの64kbpsでエンコードしてみたのだった。ほんでもって、驚いた。
驚いた勢いで、同じ音源をogg vorbisの32kbpsでエンコードしてみた。ぶっとんだ。
低ビットレートでの音質の優位があまりに歴然としていたのだ。まさに「較べ物にならない」レベルにまで達している。
おうおう、こうなったら、ogg vorbisを手軽にウェブページ上で再生させる手段を本気で探求してみようじゃねえか、と私の中になにか火がついた。
一応職業プログラマなので(専門はCとC++だけど)、アプローチは多少思い浮かぶ。ogg vorbisはWindowsやMacでは対応したデフォルトプレーヤがないので、プラグインを使って再生するのはあきらめたほうがいい(あっさりとWMAを選んでWindows以外を切り捨てないのは、私がLinuxユーザだから)。つまり、ogg vorbisの圧縮をほどくプログラムは自分で用意するしかない。そうなると、Javaでデコーダを書いてAppletとしてブラウザに貼り付けるのが順当だろう。まあ、ogg vorbisはオープンソースで開発が進められている圧縮方式だから、Javaで書かれたデコーダのコアくらいは、どこかウェブ上に転がってるだろ…。
とタカをくくって探してみると、あった、あった。Tor-Einar Jarnbjoというドイツ人らしき人物が公開しているogg vorbisデコードライブラリ(現在公式サイトはなぜかダウン中…)。よしよし、このライブラリのコアを拝借して、自分向けのユーザ・インターフェイスとくっつければいいや。2~3時間で出来そうだぞ。
と考えてから約2週間が過ぎた。
どうしてそんなにかかったか。それはね、Jarnbjo氏のプログラムにバグがあったからさ。
おかげでこの週末は、見知らぬドイツ人の書いたコードをEclipseに放り込んでデバッガに食わせ、ポチポチと一行ずつ細かく動作解析しながらバグ取りするのに費やしてしまいましたとさ。結局、比較的単純な設計上のミスを発見し、なんとか修正に成功。私のプログラムも動くようになった。(なんだか職場と同じようなことをしている…)
Ogg Vorbis 32kbps [Encoded by aoTuV]
(注:プレーヤーが現れるべきところに[×]があらわれるひとは、Javaの実行環境があなたのPCに入っていないのが原因。http://www.java.com/getjava/index.jspへ飛んで、Java Runtime Environmentをインストールしてください。"Java"というのが何者なのかは、ここでは本質ではないので省略。)
ね、驚くほどの音質の差でしょう。さっきのMP3と較べてビットレートは半分。したがってファイルサイズも約半分。イヤホン程度で聴くのなら、Ogg Vorbis 32kbpsでも充分「聴ける」レベルじゃないかとさえ思う。よく聴くとところどころで音がキンキンと金属的に響くところがあるけれど、48kbpsくらいまでビットレートをあげると、それも殆ど解消される。おそるべし、Ogg Vorbis。
今後は、苦情が来るか、致命的な欠点に遭遇でもしないかぎり「音盤聴き比べ」はこのプログラムを使って音を貼り付けるつもり。どうしても音が聞こえてこないよ、という方や、重すぎるんですけど、なんて意見のある方は、遠慮なくコメント欄なりメールなりで教えてくださいね。そのうち、デバッグ済みライブラリも含めたソースコードもこのサーバーのどこかで公開しようと思う。
10 December
2006
「くるみ割り人形」より“花のワルツ”
気がつけばもう師走。街はクリスマスの飾り付けで溢れている。というわけで、「聴き比べ」企画もちょっとクリスマスを意識したものにしてみようかな。
クラシック音楽はキリスト教の文化圏を中心にして育ったものだから、クリスマスという題材はちょくちょく取り上げられる。まあ、キリストの誕生そのものを扱った音楽は、宗教と音楽が密接に繋がっていたバロック期以前に特に多いので、私は「聴き比べ」出来るほどたくさん知っているわけではないけど。
でも、たとえば、チャイコフスキーが作曲したバレエに「くるみ割り人形」というのがあるのを知っている方は多いと思うけれど、その物語は「クリスマス・イヴの一夜に少女が見た夢」というコンセプトだってこと、知ってました? もっとも、このバレエ、「白鳥の湖」なんかに比べると筋書きは非常に他愛なくて、どちらかといえばつまらないくらい。少女クララがクリスマス・イヴの眠りの中で、その晩に近所の老発明家からもらった兵隊をかたどったくるみ割り人形と一緒に“ねずみの大王”を倒す夢を見る。くるみ割り人形はクララへの感謝のしるしとして、彼女を“おとぎの国”へと招待する。おとぎの国では、様々な“お菓子の精”が彼女を歓迎して華麗な踊りを披露する。…ね、意味不明でしょ(実際の舞台を見てもわけわからん)。しかし、装置として巨大なクリスマスツリーが使われたり、雪の中でのパーティの様子が描かれたりと、クリスマスにふさわしい、なかなか華やかな舞台ではある。
筋書きはつまらなくても、そんなことかき消してしまうくらい素晴らしいのが、チャイコフスキーの音楽。今回はその中でも、みんな大好き「花のワルツ」を様々な演奏で聴き比べてみよう。「それ、どんな曲?」とピンと来ない方でも、文明国に育った市民なら誰しも(?)、メロディを聴けば「ああ、これか」と手を打つはず。
一般にCDやコンサートなどで「くるみ割り人形」を聴くといったら、チャイコフスキーが1時間半程度のバレエの中から何曲か抜粋して20分ほどの組曲にした「組曲版」が多いと思う(実は、組曲版の初演はバレエの初演より前だったりするんだけど、まあそれはさておき)。この「花のワルツ」は、その組曲の最後を飾る楽曲。たまらなくメルヘンティックで、甘く華麗な舞踊音楽だ。
ここで指揮をしているシモノフは1941年生まれのロシアの指揮者。
昨年に来日した折ライヴでも聴いたことあるのだが、この人は、ストレートに旋律を歌わせるところが最大の魅力だと思う。湿っぽいところがなく、とてものびのびとしているのが聴いていて結構楽しい。逆に言えばやや直線的で大味な部分もあるのだが(特に管楽器の歌い方など)、ここではイギリスのオーケストラの上品な音色と指揮者の爽快な音楽運びが上手く噛み合って、なかなか素敵な演奏になってるんじゃないかしらん。
ちなみにこのCDは「ロイヤル・フィル・シリーズ」とかいう、本屋やスーパー、中古CD店などで売られている格安CD(500円くらい?)。そういう意味でも魅力。
このシモノフは1970年から1985年にかけてソヴィエト連邦のボリショイ劇場の音楽監督をしていた。そして、そのシモノフの前任者だったのが、1931年生まれのロジェストヴェンスキー。この人は、ボリショイの楽団と一緒に「くるみ割り人形」の全曲録音を残している。
この演奏を聴いていて真っ先に気になったのは、最初から最後までとにかくテンポが一定に保たれることだ。オーケストラの表情付けもわりとあっさりしている。加えて、「イチ、ニ、サン」と拍がかなり明確に刻まれている様子もよく聴こえる。これは、劇場の指揮者とオーケストラだけに、実際のバレエ上演での演奏経験が反映されているのかもしれない。つまり、これが一番バレリーナにとって踊りやすい「花のワルツ」なんじゃないだろうか。
バレエ音楽を音楽だけで聴かせるときにはよく「劇場風にやるのか」「純粋な管弦楽としてやるのか」という二つのアプローチのバランスが問題になる。中でもテンポ設定はその核で、ダイナミックに変化させると“聴き手”にとっては気持ちがいいが、“踊り手”にとっては現実的には踊れたものではない。
そんなテンポ設定でとても面白かったのが、1932年生まれのフェドセーエフが最近録音した「くるみ割り人形」全曲版の「花のワルツ」。
まず最初からテンポの遅さにびっくりだが、さらに弦の旋律に入るあたりから、どんどん速度を遅めていってしまう。そのゆったりした音楽運びがスケールの大きさを演出しているように思うのだけれど、どうだろう。瑞々しい夢を胸いっぱいに湛えて“おとぎの世界”を漂うような幸せな空気が充満しているのを感じませんか。おそらく、このテンポ設定で踊ることは非常に難しいだろうが、管弦楽としては最高級の表現力といっていいと思う。
実は、私はこのフェドセーエフが「くるみ割り人形」を指揮すると聞いて居ても立ってもいられず、わざわざ名古屋までそのコンサートを聴くためだけに出かけていったことがある。私は彼の演奏が大好きだ。各旋律間をとても丁寧に繋げる様子や、旋律を心の底からいとおしむように歌う様子などは何度聴いても素晴らしい。彼が指揮すると、音楽が独特のぬくもりを持つ。
さて、ロシア・ソ連系の指揮者が続いたので、たまには“西側”の響きにも耳を向けてみようかな。西側の「帝王」ことカラヤン。ただし、以下にあげるのはまだ50代半ばの壮年期の録音。個人的には、カラヤンはウィーン・フィルと(LONDONというレコード会社に)頻繁に録音していたこの時期が一番好きだ。颯爽としていて、晩年ほどクドくないんだよね。
管による旋律と、弦による旋律で大胆に音量の差をつけて高揚感をあおるのがカラヤンらしい。しかし、不思議なのは、ここでカラヤンはなぜか弦による旋律の繰り返しをカットしていること。意図はよくわからない。コンパクトにしたほうがよりメリハリがついていいと思ったのだろうか。妙なことをなさる。
そうそう、弦の主題で妙なことをなさるといえば、(またロシア出身指揮者にもどってしまうが)スヴェトラーノフの「くるみ割り人形」全曲録音。ハープの音を思い切って前に出してきて、旋律の色彩感を際立たせている。
スヴェトラーノフが大好きな私は、彼の「花のワルツ」の録音を少なくとも4種類持っているが、こんなことをしているのは1988年の全曲録音だけ。なにか急に思いつくところがあったのだろうか。これはこれで華やかで私は好きだけど。
実は、私がスヴェトラーノフという指揮者を好きになったきっかけは、N響アワーで彼が「くるみ割り人形」を指揮しているのを聴いたことだった。テレビの前で震えるほど感激し、この指揮者と、この音楽が大好きになってしまったのだ。
ところが、その時、「くるみ割り人形」からの抜粋演奏にもかかわらず、スヴェトラーノフは「花のワルツ」を取り上げていなかった。なんと、いわゆる組曲版ではなく、彼自身がバレエ音楽から独自に抜粋した選曲で演奏していたのだ。
後になって調べてみると、ロシア出身の指揮者にとって、それはとても一般的なことらしい。スヴェトラーノフだけでなく、上であげたフェドセーエフも(名古屋のコンサートもそうだった)、彼らと同世代のテミルカーノフも(先日来日して演奏)、ひと世代うえのムラヴィンスキーも、オリジナル選曲で「くるみ割り人形」を演奏している。
それはなぜかというと、実は一般的な組曲版では、「くるみ割り人形」の音楽の魅力は半分も伝わらないからだ(と断言してしまう)。組曲で選ばれている音楽の殆どは、バレエの中で言えば“第2幕”すなわち、「様々な“お菓子の精”が彼女を歓迎して華麗な踊りを披露する」部分からの抜粋になっている。このあたりは、比較的短く完結した楽曲が並んでいる部分だから選びやすかったのだろうが、逆に言うと短かすぎて、音楽の中にドラマがあまりない。
全曲を聴けばすぐにわかるが、チャイコフスキーの面目躍如たるロマンティックでドラマティックな音楽は、“第1幕”すなわち“ねずみの大王”との闘争が描かれるまでの部分に集中している。「花のワルツ」が好きだ、という方には、クリスマスツリーが輝き始めて夢の世界への導入となる「クララとくるみ割り人形」や、勝利の喜びをクララとくるみ割り人形が舞う「冬の樅の森」「雪片のワルツ」あたりを是非聴いてほしい。そして、第2幕でも、実はバレエでは「花のワルツ」の次に演奏される「パ・ド・ドゥ」が最大の見せ場なのだということも知っておいてくださいな。つい数週間前にテミルカーノフ指揮サンクトペテルブルク・フィルのコンサートでこの「パ・ド・ドゥ」が演奏されたとき、私は不覚にも泣いちゃったんだよね…。
「くるみ割り人形」が好きなら、第1幕の音楽と第2幕の「パ・ド・ドゥ」も必聴ですぞ! と声を大にして訴えたところで、今回の聴き比べ企画はおしまい。
04 February
2007
ヴィヴァルディ 協奏曲集「四季」より「春」
クラシック音楽に興味を持ち始めた当初、初心者向けの音楽ガイドブックの類で「すべての楽器は、“声”の代替である」という文章を読んだことがあった。以来、どうも頭の片隅に「本当かなぁ?」という気持ちがくすぶっている。
しかし、演奏に“お国訛り”が出ることがあるのは確かだと思う。楽器から出てくる旋律も、もとをたどれば奏者の心の中の“歌”に繋がる。そして、メロディへの共感は、子供の頃好きでよく口ずさんだ歌や、赤子のときに枕元で親が歌ってくれるのを聞いた経験を抜きにしては語れないと考えれば、奏者の母語の響きがスコア上の譜割りを超えたニュアンスとして滲んできてもおかしくない。
というわけで、立春の本日は、ヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲集「四季」から第一番「春」の様々な録音を通して、演奏における“お国訛り”で遊んでみることにしたぞ。
ヴィヴァルディは、17世紀のイタリア、ヴェネツィア生まれ。というわけで、本場イタリア人による演奏にまず耳を傾けてみるのが筋だろう。1959年録音で、フェリックス・アーヨ独奏のイ・ムジチ合奏団。
なかなかこの演奏だけ聴いても、どこがどんなふうに“イタリア訛り”なのかピンとこないかもしれない。私も、十年ほど前は「四季」の録音をこれしか持っていなくて、その頃はやはり「イ・ムジチはいかにもイタリア人だなぁ」なんて考えたこともなかった。ところが、ある時、ドイツの楽団が演奏する「四季」を収録したCDを手に入れ、視点がガラリとかわってしまった。聴いてみてくださいな、1958年録音の、ヴェルナー・クロツィンガー独奏、カール・ミュンヒンガー指揮のシュトゥットガルト室内管弦楽団。
私は、イタリア語は全くわからない。ドイツ語も、大学で2年間勉強したが、すっかり忘れてしまった。しかし、シュトゥットガルト室内管弦楽団が作り出すこの音楽はどう聴いたってドイツ語だ。一音一音がガチガチの輪郭を持っていて、リズムも響きも重く、几帳面に角張っている。その対比でイ・ムジチを聴けば差は誰にだって明らかだろう。リズムは軟派なくらい滑らかで、音と音の間もスルスルッと繋がっている。響きは明るく陽気。やっぱりこれはイタリア語でしょう、と思うのだけれど、どうだろう。
「四季」は、ベートーヴェンの「運命」などと並んで、「いったい何種類録音があるんだ?」とうんざりするほど多様な選択肢をCD売り場で呈しているから、いろいろな国の楽団による演奏を聴き比べることが出来る。私もいくつか聴いてみたが、印象としては、1950年代後半~1960年代前半あたりの演奏で、最も“お国訛り”が顕著なように感じた。逆に言うと、それ以降の演奏を聞いても、あまり演奏に強いローカル色を感じることはない。もちろん、皆無とは言わないが。
1950後半~1960年代前半は、やっとLP盤が普及し始めて、まともにクラシック音楽が録音で聴けるようになり始めた時期。しかしまだまだ今のように様々な演奏家のレコードが気軽に手に入った頃ではなかったはずで、例えばドイツの楽団のメンバー全員が、“本場もの”の「四季」を聴いた経験があったかというと、まずそんなことはなかっただろう。譜面だけを頼りに、自分たちの語り口で演奏を試みるという色合いが強かったのではないかと想像する。
今では、CDショップに行けばそれこそ溢れるほどの録音を安価に手に入れられるし、テレビなどを通じて外国に関する情報に接することも多い。ある国のある曲に対する「かくあるべし」という観念が好む好まざるに関わらず常識として頭に刻まれるわけだ。また、オーケストラにしても、団員ひとりひとりが外国に留学した経験を持っていることも珍しくないし、国の名前や地方の名前がついたオーケストラでも、楽団の構成員の出身国は様々であったりするのも当たり前。まあ、一種のグローバル化ってやつなんだろう。例えば、1988年にロシアの楽団が演奏した「四季」を聴いてみると、まあ本当に上手くイタリアの雰囲気を模倣しているな、と感じる。この演奏をいくら聴いていても、エリツィン(私の中での典型的ロシア人顔・体型)が演説する姿は眼前に浮かんでこない。
そんなこんなを踏まえつつ、次はフランスに飛んでみよう。1960年録音、ミッシェル・ルルー独奏、ルイ・オーリアコンブ指揮のトゥールーズ室内管弦楽団。
響きがイタリアよりなお一層薄くて、滑らかさの種類もちょっとイ・ムジチ合奏団とは違う。華やかな抑揚で感情豊かに表現する(カンタービレ[伊語]ってやつですな)というよりは、もうちょっとフワフワヒラヒラと洒落て澄ました感触がある。特に、有名な主題から鳥の鳴き交わしの模倣へと移行する瞬間の独特の音の処理の仕方なんて、いかにもフランスっぽく聴こえる。シュトゥットガルト室内管弦楽団やイ・ムジチ合奏団ほど露骨な“お国訛り”ではないかもしれないが、これら二つの楽団がどんなに気分を変えて演奏に臨んでも、こんな演奏はしないだろうし、できないだろうと思う。
さて、これまで「伊」「独」「仏」と聴いてきたわけだが、この「イタリア語」「ドイツ語」「フランス語」のそれぞれが持つ“響き”のイメージというのは、結構私の中で明確だった。しかし、次に聴こうとしている「アメリカ(英語)」の響きに関してどんなイメージを持っているか、と考えたとき、全くといっていいほど印象のないことに気づいた。伊語、独語、仏語を私が全く喋れないのに対し、英語はもちろんいくらか意味がわかる。ところが、その「意味がわかる」のと反比例して、言語自体に対する“響き”のイメージは失っているわけだ。なんだか面白い。
とにもかくにも、アメリカの楽団も聴いてみよう。1963年録音、ジョン・コリリアーノ独奏、バーンスタイン指揮のニューヨーク・フィルハーモニック。
ドイツと同じようにリズムが際立っているが、ひとつひとつの拍が重くない。リズミカルにトントントンと前のめりに進んでいく。イタリアやフランスのような響きの色彩的変化には乏しく、元気はいいんだけど、ややせっかちな印象。確かに、英語ってこんな響きなのかもしれないな。
と、こうなってくると究極の“知ってる言語”である“日本語訛り”の「四季」を聴いてみたくなってくるのだが、残念ながら独奏も楽団も日本人による古い録音は未だ見つけたことがない。徳永二男独奏、NHK交響楽団の演奏は持っているんだけど、最近の録音なので、やっぱり上手く“イタリア風”を模倣できておりますな。したがって省略。
それにしても、この論理をつきつめていくと、大阪のオーケストラは大阪弁の演奏をして、東北のオーケストラは東北弁の演奏をしている(もしくは“していた”)ことになるのだろうか。大阪のオーケストラはラテン系の音楽が得意で、東北のオーケストラはフランス系の音楽が得意だったりする?
うーむ、山形交響楽団あたり、関西でコンサートしてくれないかな。一度聴いてみたい。
[蛇足]
最後にひとつ、“言語の響き”といったらどうしても思い出してしまったので、おまけ。タモリの「四ヶ国語マージャン」を少々。中国人、朝鮮人、アメリカ人、日本人(寺山修二[青森出身])が雀卓を囲んでいる様子を、似非各国語で描いたタモリのお得意の芸。1977年にレコードになっているので、ご興味のある方は是非。
そういえば、韓国や中国のオーケストラの演奏って、自国作曲家の作品演奏以外聴いたことがないな。いっぺんちゃんと聴いてみたいところ。
周囲の情報から遮断された北朝鮮には、まだ“お国訛りオーケストラ”が残っているやもしれませんな。
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14 August
2007
バッハ 無伴奏チェロ組曲 第1番〜プレリュード
プロの音楽家が「演奏する」という行為は、「教える」という行為と似ていると感じることがある。つまり、自分がどれだけその対象物をわかっていたとしても、それを自分以外の人間に的確に伝える能力がなければ意味をなさない。そして、よく言われることだが、困ったことに自分が理解することと他者に伝達することとに要する能力やノウハウは全く別のものなのだ。時には、自分にとっては当然でわかりきっていることさえ、丁寧に解きほぐして相手に見せてあげなければならないということは、極めて困難で、面倒で、実はしばしばとても勇気のいることだ。
私が高校生のころ、同級生に「国際数学オリンピック金メダリスト」という称号を持つ友人がいた。もうそこまでいくと「数学ができる」というレベルではなく、極めて純粋な意味で「頭がいい」のであって、それはそれは(運動以外は)あらゆることに関して“できる”お方だった。
一度、私の力ではどうしてもわからない数学の問題があったので、彼のところに持っていって教えを乞うたことがあった。すると、彼は私の手から問題集を取って一度さらりと問題文に目を通すと、「ふむ」と小さな声で呟き(考えてみれば、あれが一瞬だけ脳に負荷がかかった駆動音みたいなものだったのかもしれない)、机の上にあった紙切れにスルスルッと一行の数式を書いた。
「ほら、解けた。もう答えが書いてあるじゃない」
差し出された紙片を前に、私は目が点だ。私には、問題文からどのようにしてその数式が導かれたのかさっぱりわからないし、更には、その数式をどうやって解けばいいのかもわからない。でも、彼は「もう答えが書いてある」と言う。ああ、訊くひとを間違えた、と悟って、以後彼に質問を持っていくことはなかった。
似たようなことを、大学に入ってからも経験した。学部生のときに受講した工業数学の講義でのことだ。教壇にあがっていたのは、ノーベル賞候補に名前が挙がったとまで噂されるその道の権威で、その専門分野を半年かけて授業する彼の姿は(学生の私が言うのもなんだが)いかにも嬉々とし、いきいきしていた。授業の内容は、ひとつの微分方程式をひたすら変形していってある理論を導く、というものだ(あまり細かく書くと個人特定されてしまうので省略)。
その教授の説明は、実に細かく、順を追ったものだった。板書はあっという間にみっちりと細かい数式で埋めつくされていく。教授は“どうですか、面白いでしょう"とでも言いたげな様子で熱心に説明を進める。
しかし、困ったことに、結局半年間彼の講義を受けて私程度のレベルでなんとなくわかったのは、
「あのお方のおっしゃることは、実に理路整然としている」
ということだけだった。その講義の部分ごとを取り出してみれば、決して全くわからないわけではないし、その鮮やかな式変形の過程の素晴らしさと、教授の優れた頭脳は十二分に感じることができた。ところが、「講義全体を通して」なにがわかったかと考えたときに、それが全く見付からなかったのだ。
コンサートやCDを通じて様々な演奏に接していると、時々こういった学生の頃の経験を思い出すことがある。私の聞き手としての理解力が足りないために「なにやらすごい」ということしかわからない演奏、丁寧に説明しようと細部を一生懸命彫刻しすぎるあまり一瞬一瞬の風景ばかりが目に焼き付いて、結局全体像がわかりにくい演奏、というのは結構ある。まったくもって、「伝える」というのは難しい。
というわけで、今回は数々の有名演奏家によるバッハ「無伴奏チェロ組曲」(第1番の「プレリュード」)に耳を傾けながら、音楽を「伝える」技術についてちょっぴり考えてみたぞ。
まずは、どのような曲なのかイメージを掴むために、1914年生まれのフランス人、ポール・トルトゥリエの演奏を。
とても端正かつ自然で、演奏家自身の「俺はこう思うんだ!」という主張があまり強くない演奏だと思う。あらゆる要素を過不足なく丁寧に並べることで、聴衆自身が自分の好きな部分を自分の感性で捜し出せる環境を作っているような印象さえ受ける。しかし、この「過不足なく」「自然に」という雰囲気は、決して演奏者自身の強い意思や思想がないから、というものではなく、途方もない才能・技術・鍛錬を経由しているからこそ可能な肩の力の抜き方によって実現しているのも事実だ。その、バックにある深いものを感じさせるからこそ、聴衆の方から曲の魅力を掴みにいきたい、と思わせるような音楽になっているのだ、とも言える。敢えて淡々とやり、聴衆の積極性を喚起する、という高等戦術?
私個人としては、最も取り出して聴く機会の多い「無伴奏」の録音でもある。
さて、今では“チェリストにとっての旧約聖書”とさえ呼ばれる「無伴奏チェロ組曲」だが(ちなみに、新約聖書はベートーヴェンの「チェロ・ソナタ」だったり、ドヴォルザークの「チェロ協奏曲」だったり)、実は頻繁に演奏されるようになったのはそんなに古い話ではないらしい。1700年代にバッハによって作曲された後、ほぼ完全に忘れられていた(それもあって、どういう機会にどういう意図で作曲されたものなのか未だにわかっていない)。その作品を今から百年ほど前に発掘し、研究を進めて録音をしたのが、戦前・戦中を中心に活躍した1876年生まれのチェリスト、パブロ・カザルス。ソロ楽器としてのチェロの演奏法とレパートリーを確立した人物だ。
そのカザルスの演奏も聴いてみよう。
非常に古い録音なので音が悪いが、それでもよくわかるのは、かなり節回しが独特なことだ。イチ・ニ・サン・シと均等な拍節を刻もうという意図はないようで、リズムを強調するためか、音符ごとの長さの伸び縮みが激しい。また、全体を通しても非常にテンポの変化が激しく、さらりと流しぎみのところと、大きく構えてねちっこくやるところの差が顕著だ。なんというか、自分が重要だと思うポイントをピックアップして拡大鏡をあて、「ほら、ここなんだよ、ここ」と示して見せるかんじだ。そのためには、一定のテンポやテンションの維持を犠牲にすることも厭わない、というスタンスが面白い。逆にそのメリハリによって、自分が伝えたいことを生々しく聴き手に伝える技。天才にだけ許される「一代芸」であり、演奏家自身のセンスと経験と自信、そして聴衆の演奏者に対する敬意があって初めて成り立つ演奏だとも言えるかもしれない。
最近出た無伴奏チェロの録音の中で、このカザルスのアプローチを押し進めていったスタイルの演奏ではないかと感じたのが、1961年生まれの現代ロシアの俊英、アレクサンドル・クニャーゼフのものだ。
冒頭からものすごい快速にびっくりだが、ところどころで急ブレーキを踏んで見栄を切るのにさらにびっくりした。その、大胆なテンポとテンションの変化によって、彼の考える音楽の“ポイント”を際立たせてみせる。それでいて流れがギクシャクすることなく、音楽全体を彼の音楽性が持つ“しなやかさ”が統一しているから、違和感がない。
クニャーゼフは、この流麗快速な第1番に対して、他の組曲(例えば第6番など)は超スローテンポでじっくりと深い情感を描いてみせるなど、近年稀に見る程のアグレッシブで個性的なアプローチを見事成功させている。どの曲を取っても“極端”という言葉がふさわしいが、音楽における「表現」とは何かを考えたときに、彼の演奏を他の奏者のものと聴き比べてみることは、とても示唆に富んでいると思う。
とはいえ、実際のところ、音楽の表現として「時間軸方向に激しく伸縮させる」という手法は、かなり古くさいやりかただというのも事実だ。「クラシック音楽」と言えども、その演奏スタイルには流行廃りがある。演奏家の感性で音楽のフォルムをいじる、というのがもてはやされたのはせいぜい戦後すぐくらいまでで、それ以降は、正確一定のテンポでスッキリと音楽を進める、というのが基本になっている(
新即物主義の影響と言われているようだ)。
例えば、現代のチェリストを代表するふたり、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(先日亡くなったが)とヨーヨー・マももちろん無伴奏チェロ組曲の録音を残しているが、彼らの演奏を聴くと、カザルスのそれとはかなり表現の立脚点が違うことを感じられる。
1927年生まれのロストロポーヴィチの演奏がこれだ。
揺るがない意思を感じさせる、力強いリズムが印象的だ。そして全ての音符に鋼のような確信が漲っており、気宇壮大とも言えるスケールの大きな世界を形作っている。ソヴィエト政府から反体制勢力と糾弾され、亡命を余儀なくされながらも芸術や言論の自由に関する活動に身を捧げた彼の人生と繋げるのは安直かもしれないが、この音楽を貫く強さ、そしてその強さこそが持つ包容力、優しさの表現は、どんな技巧家をしても真似しようにもしようがないのも確かだと思う。
ロストロポーヴィチは、20世紀後半を代表するチェリストと言われた一方で、無伴奏チェロ組曲の全曲録音を長い間拒否しつづけてきたらしい。60代半ばとなり満を持して発表されたこの録音には、その時点まで彼が人間として積み上げてきた全てのものを、彼の人生のあらゆる局面を支えてきたくれたチェロというものを通じて一気に吐き出したかのような鬼気迫るものが感じられる。
我々のような凡人聴衆にしてみれば、そんなものが剥き出しで開陳されてきたら、とても受け止めきれないのではないかと思う。しかし、ロストロポーヴィチの思いは飽くまでシンプルで端正なバッハの音楽のフォルムを崩さない形で表現される。この、ありのままのバッハの音楽と自分の全てを合致させる、ということこそ、彼が時間をかけて取り組んでいたことなのだろうし、それが為されているからこそ我々にこれほどまでに力強く「伝わる」音楽となっているのだと思う。
そして、ロストロポーヴィチの次の世代、1955年生まれの中国系フランス人、ヨーヨー・マが無伴奏チェロを演奏すると、こうなる。
これも、これまで聴いてきた演奏に比べてテンポは遅めだが、大きなテンポの伸縮はない。ただ、時間軸方向の変化は微弱なのに対し、とにかく音色・音量方向の変化がすごい。ひとつひとつの音を変幻自在に描き分け、「この音はこういう意味で、その次の音は前の音とはこういう関連性で、こんな意味で…」ということを克明に説明している。明らかに、この天才は「すべてをわかっている」のだということが聴衆にも手に取るようにわかる。そしてそれを、レガート気味のひとつの流麗なながれの中でやりきってみせるのだから驚きだ。
ロストロポーヴィチを「素晴らしい“ますらおぶり”」とするならば、マの演奏は間違いなく「素晴らしい“たおやめぶり”」だと感じる。
ただ、このプレリュードではそれほどでもないが、他のテンポの速い楽章では、マのテクニックと音楽性があまりにすごすぎて、時々私の聴衆としての耳が付いていかなくなる場面がなくもない。どんなに速くなっても、相変わらず全ての音符に丁寧かつ完璧な注釈が加えられているということはわかるものの、私の耳と頭の回転速度ではその解読が間に合わず、結果的に流麗なながれだけに流されていってしまいそうになる。なんだか、冒頭に述べた学生の頃の経験を思い出してしまうのだった。
このマの演奏とある意味で対照的なのが、1906年生まれのフランス人、ピエール・フルニエの演奏。
マよりもさらにゆったりとしたテンポを取っているが、“流麗”というイメージはあまりない。とにかくひとつひとつの音を慎重に置いてゆく姿勢が顕著だからだろう。
私はこの演奏を聴くたび、教会で牧師さんが信者を見渡しながら、ゆっくり、噛んで含めるように聖書の文言を朗読している様子を連想する。尊敬するバッハの書いた音符をひとつたりともおろそかにしないぞ、という熱意と謙虚さが演奏全体の雰囲気を支配している。そして、その思いを自分自身のみでなく、聴衆とも確実に共有しようとしているのを感じるのが、連想の所以かもしれない。
いつしか、聴き手もフルニエと同じ謙虚な気持ちになって、奏者と一緒にバッハの音楽と正面から向かい合い、考えさせられる。実は、しっかり聴くといちばん疲れる(悪い意味ではない)演奏ではないかしらん。
最後に、やや毛色の違ったアプローチとなるが、1934年生まれのオランダ人、アンナー・ビルスマの録音も聴いておこう。
ピッチや音色が他とずいぶん異なることに驚かされる。それもそのはず、この演奏は、バッハの時代のチェロを復元した楽器で演奏されているのだ。その頃のチェロには支柱がなく、胴体を足の間に挟んで固定した。また弦は金属やナイロンではなく、ガット(腸紐)。ビルスマによると、現代チェロのように朗々とした大きな音は出ないが、小さく多彩な音を出すのに向いているという。
確かに、一種の素朴さと小気味よさが印象的で、それが「無伴奏チェロ組曲」がそもそもは古い舞曲の形式を使って書かれた楽曲なのだということを鮮やかに思い出させてくれる。ややキザないい方をすれば、この音楽が「魂の舞曲」なのだということがよくわかるのだ。そこには喜びの舞もあれば、哀しみの舞もある。
細かい指使いや弓使いが如実に音色に反映されるバロック・チェロの演奏には、演奏者の“こころ”と音楽が一体になった緊迫感がある。この“肉声感”とでも言うべき感触が聴き手の胸に迫ってくる。
と、かなり長くなったが、「無伴奏チェロ組曲」の冒頭を7種類聴き比べてみた。
音楽が比較的シンプルであるからこそ、それぞれの演奏者が「聴き手に音楽を伝えるとはなにか」をどう考え、どう実践しているのかということが解りやすいと思うのだけれど、どうだろう(まあ、冒頭のほんの一部だけで語るのもアレだが…)。
てなわけで、今回はこのへんでおしまい。
[追記]
リクエストくださったハタノさん、ヨーヨー・マの「無伴奏チェロ組曲」録音で、第1番、第3番、第5番のみっつだけが収録された1枚もののCDがうちのラックに余ってるんですけど、要ります?
13 April
2008
予告編?
最近、CDラックにはピアノ音楽の音盤が急激に増殖中。このごろは、比較的シンプルなものになぜか心が惹かれる。もう歳か。
てなわけで、
どちらかで近いうちに遊ぼうかと画策中。目標、一ヶ月以内。
17 May
2008
エルガー 「愛の挨拶」
急に気が変わったため、予告とは全然違う曲を取り上げるのであしからず。
「愛する人に音楽の贈り物をする」という話は、“よくあること”なのかどうかはよくわからないが、“よく聞くこと”ではある。音楽というものが、心を有効に伝えるためのメディアという側面を持つのは確かなので、誰かを愛したときに、その思いを届けるために音楽の力を借りるというのは、腕に覚えのある方々にとってはとても自然なやりかたなのかもしれない。もっとも、成功・不成功の差が激しく、一般的にはお薦めできない手段だとも思うけども。
イギリスに、エルガーという作曲家がいた。イギリス第2の国歌とまで言われる「威風堂々」などを残した国民的作曲家だ。このお方が、恋人に「婚約記念」として贈った、その名も「愛の挨拶」という作品がある。とても愛らしい小品で、私はクラシック音楽を聴き始めた当初から大好きだ。
愛する人との婚約を祝して、というシチュエーションだけでも充分「ごちそうさま」というかんじだが、実はその婚約は、「女性の方が8歳も年上」「宗教が違う」「身分が違う」という理由からくる親族の猛反対を押し切ってのものだったのだそうな。恋人に捧げた甘い旋律の裏には、そういった万難を乗り越えた作曲家のいろんな思いが詰まっているわけだ。なんだか、ここまでくると少女漫画か韓国ドラマのようなお膳立て。
当初エルガーが婚約者に贈った「愛の挨拶 (Salut d'amour)」は、婚約者がもとは彼のピアノの生徒だったということもあってか、ピアノ・ソロ曲だった。しかし、後に作曲家自身の手によって「ヴァイオリンとピアノ向け」「小編成オーケストラ向け」と編曲され、今ではその中でも「ヴァイオリンとピアノ」のヴァージョンがもっともよく演奏されている。
今回は、そんな「愛の挨拶」を様々な演奏で聴き比べて、世の中にはどんな「愛の形」があるのか覗いてみようかと。
まずは、アン・アキコ・マイヤースさんのアンコール集から聴いてみよう。
音と音の間を極端なレガートで…というかもうポルタメントのようにして繋げることで、旋律に「なまめかしい」とさえ感じさせるような曲線美を与えている。乙女チックというにはやや色っぽく、ちょっとオトナの風味。もっとも、オトナといっても20代半ばから30代前半くらいの健康的な色気かな。
ちょっとおめかしして、夜景の見えるレストランで恋人とワインを飲むのが楽しい、そんな「愛」ってとこかしらん。
続いて、韓国の名手、チョン・キョンファ(鄭京和)さんに耳を傾けてみる。
なんとも柔らかい肌触り。夢見るように、ふわり、ふわりと音を置いていく様子が気持ちいい。この、「愛」への喜びと期待が大きく息づいているのを感じさせる演奏は、「愛の挨拶」の“乙女チックな側面”をとてもよく引き出している。しかも同時に、きっちりとした節度を保っているのが好印象で、なんというか、中高生くらいの育ちのいいお嬢さんが「恋に恋してる」雰囲気を思い起こさせる。(私の勝手な想像)
いつも通学途中に会う、一学年上の先輩にほのかな恋心を寄せるのだけれど、後から大人になって考えてみると、それには「恋」というもの自体への憧れも入り混じった感情で…っていう青春の一頁。そんな「愛」という見積もりでいかがでしょ。
次は、五嶋みどりさんのヴァイオリン。
ひとつひとつの音の扱いがとっても丁寧で、折り目正しい。上品で、落ち着いていて…ひとことであらわすならば「ノーブル」といったところか。聴いていると、とても深い懐に抱かれているような優しい心持ちになるとともに、やがてその高潔さに心打たれて背筋がのびる。
すでにこれは、「誰かひとりへの愛」を超えて、「博愛」とか「人類愛」とかいうレベルの「愛」を歌っているように、私には聞こえる。献身的な慈善家や、徳の高い神父さんがみせる笑顔のような、誇り高き美しさ。ああ、愛のスケールにもいろいろだ。
では、当代きっての人気ヴァイオリニスト、イツァーク・パールマンの「愛の挨拶」はいかに。
あれ? ニ長調に移調している(原曲はホ長調)。意図は不明。自分の得意な音域に移したのかな?
理由はさておき、この移調によってかなり音楽の印象がかわっているのは事実。すべての音が全音落ちたことにより、甘く陶酔した雰囲気よりは、あたたかく、懐かしいものをかんじさせる雰囲気なっているように思う。ねばっこいビブラートが、ちょっと古風な印象をあたえるのも関係しているかもしれない。セピア色をした、思い出の中の「愛」といったところか。
戦後すぐの田舎の中学校。野球部の少年が、最近東京から転校してきた美しい少女に恋をする。グラウンドで練習していると、少女が弾くピアノの音が音楽室から聴こえてくる。ふと校舎を見上げると、窓から見える彼女の横顔。その横顔を見られるのが、彼の毎日のひそかな楽しみになる。しかしすぐに彼女はまた転校することになり…(あとのストーリーは各自好きに補って頂戴)…みたいな青春映画の挿入曲にしたい。なんだか、この演奏には木造校舎が似合う気がする。(すみません、妄想が過ぎましたか)
さて、1922年生まれ、録音時点で63歳のイヴリー・ギトリスさんが愛を語るとどうなるか。
うわずったような独特の音色で、予測不能なテンポ、予測不能な節回し。ピアニストと合わせる気まったくなし。畸形な愛が自分の中だけで支離滅裂にはじけている。マイペースな愛、ひとりよがりな愛、を通り越して、ほぼ「ヘンタイ」の領域に達しているんじゃなかろうか。エルガーの婚約者がこの演奏を聴かされたら、果たしてこのまま結婚してもいいものかと考え直していたかもしれない。
マッドサイエンティストが、一方的に熱愛する女性を心に浮かべながら、地下の研究室で「愛の挨拶」を演奏したら、こんな演奏になるんじゃなかろうか。とにかく、聴けば聴くほど、なんだかこの「愛」、コワイ。(すみません、ギトリスさん)
最後に、オーケストラ版の「愛の挨拶」も聴いておこう。独奏は、井川遥系の美人ヴァイオリニスト、奥村愛さん。
ああ、なんて爽やかな美しさなんだろう。控えめなオーケストラの響きをバックにして、まっすぐに歌うヴァイオリンがキュートだ。素直で、屈託がなくて、希望に満ち溢れている。
例えるならば、若い新婚さんの現在進行形の「愛」だろうか。奥さんの大きなお腹をそっとさすりながら、シアワセいっぱいの笑顔をうかべて将来についてふたりで語り合う場面などが似合いそう。
はい、以上、
ホリタの妄想劇場「愛の挨拶」の聴き比べでございました。どの「愛の形」が御気に召しました?
16 November
2008
一番人気は?
アクセス解析をちょこちょこと眺めていたのだけれど、久しぶりに細かいところまで調べてみると、GoogleやYahoo経由で結構「聴き比べ」にやってくる方が多いことに気づいた。
山のようにコンサートの感想を書き連ねている割には、サーバーの設定方法や音盤聴き比べへのアクセスが多い。記事の比率から考えると、来客のバランスはかなり偏っているんだな。
で、「聴き比べ」の曲別のアクセス順位はというと、厳密に数えているわけではないけれど、
- エルガー「愛の挨拶」
- ショパン「ワルツ第7番」
- バッハ「無伴奏チェロ組曲第1番」
- ショパン「ピアノ協奏曲第1番」
- ヴィヴァルディ「四季より”春”」
- 「オーケストラ版ピアノ版聴き比べ」
- チャイコフスキー「くるみ割り人形より”花のワルツ”」
ってところかな、と。なんで「愛の挨拶」へのアクセスがこんなに多いんだろ。最近、
日清食品の企業CMに使われている(カップヌードルを殺虫剤などの近くに置くなというやつ)からかなぁ?
気が向いたら、過去のサイトで置いていた聴き比べ特集(メンコン、チャイコン、ブラームスの第1番など)もこっちに移そうかな。
そういえば、今月はじめに聴きに行っていた
テミルカーノフ指揮のサンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団のアンコールで演奏された「愛の挨拶」のビデオがあったので、こっそり。私が行った大阪公演の6日後のNHKホールですが。
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私はこの演奏を聴いていて、「テミルカーノフって、この曲が好きなんだなぁ」とつくづく感じた。上手いオーケストラが、リラックスして、かつ丁寧に演奏するとこんなに幸せな音楽になるんだなぁ。
22 February
2009
ホルスト 組曲「惑星」 から 「木星」
今年は「世界天文年」らしい。かのガリレオ・ガリレイが天体望遠鏡を発明してから400年になるのだそうな。
このブログに書く話題は音楽や古典芸能、そしてすこしばかり文学、といった具合ではあるが、実は私は間違いなく「理科人間」であって、何を隠そう小学生のときは「理科クラブ」に所属していた。ということは当然、定番である「星図の作成」のようなこともやったことあるわけで、それを片手に我が家のベランダから夜空を見上げていたことも一度や二度ではない。
しかし、最終的には、私の理科的興味は空へとは舞い上がらず、家電製品の中へともぐりこんでいってしまった。つまり、大学は何の迷いもなく、理学部ではなく工学部を選択したのだった。
ところが、星空とのコンタクトは私に再び訪れた。大学院で所属した研究室では、星空に巨大なレーダーを向け、流星(というか、正確にはスペース・デブリ)の観測・研究がおこなわれていた。私自身はもっとレーダー自体の原理的な部分を扱っていたので、流星のデータを直接触ることはなかったのだが、毎夏、某所の山奥にあるレーダー施設に研究室のメンバーと泊まってたくさんの星を見上げたりはしていたのだ。
それだけの機会があったにもかかわらず、どうして天文に深い興味を抱かなかったのか、振り返ってみると我ながら不思議だ。なにしろ、現状の私の天文に関する知識は、おそらく義務教育の教科書レベルにも足りないのではないかというくらいなのだから。オリオン座と北斗七星をみつけるくらいで精一杯だろう。…私には宮沢賢治的な想像力が欠乏していたのだろうか?
というわけで、今回は様々な時代に録音されたホルストの組曲「惑星」に耳を傾けながら、演奏家が、そしてその時代の人たちがどんな「想い」をもって星空を見上げていたのかということに思いを巡らせてみたぞ。
なにはともあれ、「木星」の有名な部分を、まずはこの曲の初演を手がけた指揮者であるボールトの指揮で聴いてみよう。
「惑星」は1916年頃に作曲された作品で、ボールトが初めて演奏したのは1918年。その年代を見れば明らかだが、ホルスト自身は決して、現在の我々が「惑星」に抱くイメージをもってこの曲を書いたのではない。例えば、我々は「木星」と聞けば、
NASAが公開しているカラー写真などを思い浮かべながら想像力を羽ばたかせたりするかもしれない。しかし、ホルストはそんな木星の姿など知っていたはずがないのだ。せいぜい、星の姿を見ていたとしても、性能のよくない天体望遠鏡越しのぼんやりとした星芒でしかなかったろう。
では、ホルストが「惑星」を書くにあたって想像の原点にしたものはなにかというと、どうやらそれは「占星術」らしい。占星術上では各惑星にギリシャ神話の登場人物の性格が象徴として割り当てられているのだそうで、ホルストはこの楽曲で、それらの性格を各惑星ごとに描写した、ということらしいのだ。その証拠に、各楽章にはその性格をあらわす副題が付けられている。ちなみに「木星(Jupiter)」は「快楽をもたらす者」。
初演から実に60年も経ってからの録音ではあるが、ボールトによる演奏を聴くと、そんな作曲家の「想い」がしっかりと残っているのを感じる。楽曲の持っているキャラクターを丁寧に描き出す姿勢が貫かれているからだろう。たとえばここに抜き出した部分の最初あたりでは、各楽器の音色が明確に聴き取れ、しかもそれらみんなが本当に楽しげに踊っている。50秒あたりから始まる旋律も、濃い色彩感で明るく堂々と歌われ、まさに「快楽をもたらす者」の雰囲気だ。
さて、この組曲「惑星」、ボールトが初演以来、何度も何度も録音していたにも関わらず(上の録音は最晩年の5回目)、長い間、決して今日のようなポピュラリティを得ていたわけではなかった。ブレイクのきっかけは、カラヤンがウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮して1961年に録音したことだと言われている。
冒頭から、強烈な熱狂に圧倒される。すごい興奮状態だ。46秒からの旋律でも、一音一音に熱い念を込めるような温度の高さがある。
このレコードがヒットした理由は、もちろんこのコンビの演奏がよかったということもあるには違いないが、1961年という「年」にも大きな意味があるのではないかと思う。1961年は、4月にソ連が人類初の有人宇宙飛行に成功した年。ガガーリンの「地球は青かった」という発言、米ソ宇宙開発競争の火蓋が切って落とされた、その直後(9月)に録音され、発売されたのがこのレコードだったのだ。
宇宙空間への人類進出が初めて現実のものとなったことで、世界の多くの人々が、これから始まる宇宙開拓時代への希望と興奮をもって星空を眺めていたに違いない。星空には、未知なる物へ手が届いたことへの喜びと、科学技術への期待と、イデオロギー対立の意地がうずまいていたというわけだ。そういった時代の「想い」が、カラヤンとウィーン・フィルの熱狂的な演奏の土台となっているのではなかろうか。
1960年代に始まった米ソの宇宙開発競争によって、人類は人工衛星や宇宙船から撮影された写真やビデオを目の当たりにし、それまでの想像を超えた「本物の宇宙」を知る。深闇の中にぽっかりと浮かぶ地球の姿、無重力の中でゆっくりと動く乗組員の姿、そして、宇宙空間を支配する静寂。
例えば、当時のそんな「リアルな宇宙」を知った驚きを象徴しているのが、1968年に公開された映画「2001年宇宙の旅」ではないかと思う。あの映画を見始めてまず興味をひかれるのは、極端にサウンドが抑制されていることだ。殆どの場面で、宇宙飛行士の呼吸の音と、無線の小さな受信音くらいしか聞こえてこない。これは、「宇宙空間は空気がない(=音を伝える媒介物がない)ために、音が聞こえない」という「リアルな宇宙」の姿を反映した結果なのだという。
そしてそんな「リアルな宇宙」の決定的な印象は、1969年のアポロ月面着陸のテレビ中継によって全世界の人類の目と耳に強烈に焼きついたのに違いない。
だから、1970年代以降、人々が「惑星」という単語から想像するイメージは、1960年代とは大きくかわっていたのではないかと思う。私はそれを、1986年に録音されたデュトワ指揮のモントリオール交響楽団の演奏を聴いて感じた。
この演奏は、とにかく「静か」だ。オーケストラの出すサウンドは徹頭徹尾透明で、クール。48秒から始まる旋律も、こころもち遅めに、すーっと直線的に奏でられる。聴いていると、神秘的なまでの浮遊感を覚えるくらいだ。まるで、宇宙船から切り離された人工衛星が静かに宇宙空間へと放たれ、まっすぐに飛んでいって真っ暗な宇宙に消えていく様子をみているような気分になる。
こんな「惑星」の演奏は、「リアルな宇宙」を知る前に果たして可能だったろうか、と考えてしまう。
そういった「リアルな宇宙」のイメージが一般に浸透する一方で、宇宙に対するリアリティは、1980年頃から、想像力旺盛なクリエイターたちが「SF」の世界を作り上げる原動力ともなった。「スターウォーズ」最初の映画の公開が1977年、「銀河鉄道999」アニメ放映開始が1978年、「機動戦士ガンダム」が1979年、といったところが始まりか。そして、これにより、「宇宙」という単語から想像される世界として、流線型の飛行機がレーザー光線を発射しながら飛び交い、ヒーローが最新鋭の兵器を使って敵と戦うような場面が多くのひとたちの頭の中に現れた。
この流れを汲んだ「惑星」の演奏は、1989年に録音されたレヴァイン指揮のシカゴ交響楽団に極まる。アメリカ最強の楽団に、オペラ界で頂点に立つ指揮者が鞭を入れたこの演奏をひとことで表現するならば、「ハリウッド的」とでもなろうか。
冒頭からマッシブな金管が聴き手のアドレナリンを喚起する。途方もないエネルギーをもっているのに、オーケストラの合奏は精密機械のように正確無比。まさに最新鋭の宇宙船のようだ。そして46秒からの旋律は、金管をかなり前面に出して奏でられる。まるで英雄への勇ましい讃歌を聴いている気分。また、ここに抜き出した部分ではないが、この後再びテンポアップする場面など、さながら「最新式メカのジェットエンジン噴射!」という印象で面白い。
もはやここまでくると、ホルストの「占星術をもとにして…」なんて声は遠くにかすんで聴こえてきはしない。しかし、これはこれで魅力的な「惑星」の演奏であることに疑いの余地はない。
ここまで4つの特徴的な演奏を聴いてみたが、これらの演奏を比較してみて、いえることがふたつあると思う。
ひとつめは、我々人類が「宇宙」「惑星」という言葉に対して抱くイメージは、100年も経たない間に大きく、そして何度も変わってきているのだ、ということ。
では、現在、我々は「宇宙」や「惑星」という単語に夢や希望を抱けているだろうか?
2006年録音の、ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏に耳を傾けてみよう。
いまや、宇宙ステーションは着々と組み立てられ、人間が長期滞在することも珍しくなくなった。ハッブル宇宙望遠鏡は次々と宇宙空間の写真を我々に届け、一部の大金持ちに至っては宇宙観光をする。そんな時代の我々が星空にうつす「想い」は?
ラトルの演奏からは、1960年代の猪突猛進的熱意は感じられない。70年代以降の、神秘的な静けさとも違う。スペース・オペラ的な英雄譚でもない。特に印象的なのは、46秒からの旋律が、慈愛に満ちた優しさすら感じさせることだ。確かに、「ホーキング宇宙を語る」の大ヒット以降だろうか、我々は宇宙に「すべての生命の母」を感じられるようになっているかもしれないな、と私は思ったのだけれど、どうだろう。
そしてふたつめにいえるのは、芸術作品というものが、「鑑賞者の属する時代の価値観」によって読み替えられ、評価される運命にあるのだということ。
おそらく、1960年代以降「惑星」という曲は、作曲家の意図と乖離する形で解釈され、愛されてきた。そして、その解釈のされ方も一定していたわけでなく、時代ごとの鑑賞者の嗜好に当てはまるように大きく変化してきたのだ。それは別に悪いことではなく、ごくごく自然なことなのだろう。つまり、芸術作品を解釈するのは「それぞれの時代の鑑賞者」であり、鑑賞者の審美眼は、その時代の価値観と決して無縁ではいられない。そして、時代によって価値観は変化する。私は、価値観は「変化する」のだと思う。科学技術のように「進歩する」のではなく。
ホルストの「惑星」のように、時代ごとの価値観によって上手く読み替えられて愛され続けているというのは、作品としては非常に幸運な例なのではないかと思う。芸術家が生前は評価されなかったが死後何年もたって有名になったり、生前人気のあった芸術家が時代とともに忘れられたりした例は枚挙にいとまがない。それらは、決して昔の鑑賞者に審美眼がなかったからとか、現代の鑑賞者の眼が肥えたからとかいう理由でそうなっているのではなく、残された作品と、変化していく世間の価値観が時間とともに重なったり離れたりしているだけなのではなかろうか。
はい、長くなったけど、本日は(そしておそらく今年の「聴き比べ」は)これにておしまい。
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