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21 April
2006
PHSで速報
大阪フィルハーモニー交響曲楽団の定期会員、3年目突入。本日の指揮者はもちろん大植英次。曲目は
コリオラン序曲(ベートーヴェン)
オーボエ協奏曲(R.シュトラウス)
英雄の生涯(R.シュトラウス)
ミネソタで監督をしていたときに録音までのこしている得意の曲を取りあげるとあってか、補助席が出るほどの満席だった。
オーボエ独奏はフランソワ・ルルー。こんなに甘く、幸せなオーボエの響きを私ははじめて聴いた。フレーズのひとつひとつが温かな表情に満ちていて、オーケストラとのかけあいも洒落ている。相手の語りかけに、ときには満面の笑みでかえしたり、ときにはおどけてみせたり。聴き手にまで幸せを運ぶ音楽。
英雄の生涯は、4管編成と呼ばれる、いわゆるフル・オーケストラよりもさらに一回りおおきな編成で描かれる音の一大スペクタクル。
特に第四部の「英雄の戦い」なんて、その大編成がみんなして全力投球する巨大音響の化け物なのだけれど、大植氏は充分な勢いを保ちながらもしっかりとした指示でアンサンブルを崩壊させず、音楽がうまくひとつの方向に流れていた。オケも指揮者もお見事。
さあ、今年も楽しみなことになりそうだ。
27 April
2006
大阪国際フェスティバル
先週末に引き続き、大植英次指揮による大阪フィルのコンサートを聴きに行ってきた。場所はいつもとちがって、フェスティバルホール。大阪国際フェスティバルという毎年恒例の音楽祭の締めくくりとなる公演だ。
・シューマン「ピアノ協奏曲」 (ピアノ:中野翔太)
・マーラー「交響曲第5番」
中野翔太さん(1984年生)を聴くのは、おそらく二度目になると思う。前回は別の在阪オケとブラームスの協奏曲を演奏していたのを聴いたように記憶している。そのときの印象は、「キレイな音で、正確なピアノで素晴らしいな。でも、贅沢を言えば、もうちょっと“色気”が欲しいな」というものだった。ところが、今回聴いてみると、曲との相性もあってかとってもしなかやな音楽性がはばたいていて、自然と心が引き込まれていった。特に最終楽章では、シューマンらしいピアノ栄えのする主題で柔らかに舞う様を聴いていると、その爽やかさに惚れ惚れとしてしまった。
これから、まだまだ成長していくピアニストなんだろうな。今後も聴く機会があると思うので、楽しみだ。
さて、後半はマーラーの五番。とにかく錯綜ぎみの音楽、としか今の私には言えない曲。突如として意外な部分が意外な形に膨張しはじめる異形さに、しばしばついていけない。他のマーラーの交響曲には一種の「物語性」が感じられるので、その展開が面白くて感情移入できるのだけれど、この曲ばかりは聴いていて「おい、どこ行きたいねん」と戸惑ってしまう。
しかし、大阪フィルと大植英次氏は、驚異的なまでの集中力で一気に音楽を前進させ、このとりとめのない音楽から私の耳を離させなかった。大きな感情の幅でガクガクと揺れ動く切羽詰った表現が目の前を高速で流れていく様子は、なんというか、精神の迷宮にまよいこんだような気分で、これはこれでかえってリアルな物語なのかもしれない、なんて感じたりもした。
3年前、大植英次氏が大阪フィルの音楽監督に就任した日の演奏会曲目はマーラーの交響曲第2番「復活」だった。私は聴きにいけなかったのだが、後日の新聞評には「大植の指揮技術は特筆すべきものがある。しかし、オーケストラの演奏能力がそれに応えられるレベルにまで達していない」と書かれていた。私がその直後の演奏会を聴いた印象から言っても、はっきり言って、それはあたっていたと思う。でも、今ではそんなこと言うひとはいないんだろうな。間違いなく、指揮者とオーケストラが人馬一体となった音楽表現の塊が眼前で燃え盛っていた。
04 May
2006
期待感はプラスマイナスゼロ、もしくは微増
兵庫県立芸術文化センターから「重要なお知らせ」なんて大きなハンコが押された封書が届けられてきたら何事かと思ってしまうが、なんのことはない、今月21日に聴きに行くドイツ・カンマー・フィルでヴァイオリン独奏予定だった諏訪内晶子さんが病気のため代演を立てます、という通知だった。
代演を引き受けたのはヒラリー・ハーン女史だそうで、まあなんというか、本当に適材がちょうど来日していてラッキーでしたね、という印象。ほら、最近出したCDのジャケット写真を見ても、なんか雰囲気が似ている(そういう問題ではない?!)。演目(ベートーヴェンのコンチェルト)の変更もないらしい。諏訪内さんにしては一般的な演目だったのでなにより。アウエルバッハとかだったら、こんな直前に誰も引き受けてくれなかったでしょうに。
しかし面白いのは、招聘元が送ってきた封書の文面。必死の言い訳にこっちまで恐縮してしまう。曰く、
「ヒラリー・ハーン氏は、世界最高のソリストの一人であり、(中略)2000年には、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の来日公演(アバド指揮)でもベートーヴェンの協奏曲を共演するなど、若くしてキャリアを積み上げてきているトップ・ヴァイオリニストの一人です。(中略)ヒラリー・ハーン氏の今年開催されるリサイタル公演は、東京・名古屋ともに完売し、チケット入手困難なアーティストです。」
なんと、文章中の太字は、送られてきた封書でも太字で印刷されているのだ。今回の代演では払い戻しをしないつもりらしいので、招聘元も一生懸命なのはわかるが、そこまで熱くならなくても。ハーン女史が世界的に注目のヴァイオリニストであることは知ってる人もおおいでしょうし…。
もっとも、終演後に「結婚おめでとー!」と叫びたかったファンもいるやもしれず、諏訪内さん目当ての方々はお気の毒様でございます。あたしゃ、これはこれで楽しみになってきましたよ。
13 May
2006
約半年待ったよ!
村治佳織さんのコンサートに行ってきた。コンサート開始時間は14時。そう、平日の昼日中である。
というのも、この公演は本来昨年の年末に開催される予定だったのだ。ところが、村治さんの右手疾患により、公演延期となった。そう、私は日付の過ぎたチケットを握り締めて、約半年間待ち続けたわけだ。振り替え公演が平日の昼に設定されようが、構うもんか。上司から指定された、担当ソフトの完成締め切り日と重なろうが構うもんか(ちゃんと昨日終わらせたもんね)。技術トレンド勉強会(という部署内の勉強会)の発表順と重なろうが…(頼み込んで順番を変わってもらった)。
会場はいずみホール。全821席だが、平日昼にもかかわらずほぼ全て埋まっていた。これは、結構すごいことではなかろうか。
ただ、さすがに高校生くらいの若い人の姿はみられず、多くが中高年以上と、全体的に年齢層高め。私と同じ年頃(20~30代)も、ちらほらと見られる程度だ。(ひとり、ジャージ姿で頭にタオルを巻いた青年をみかけたのだが、あれはいったい何者だったのだろうか)
[前半]
- サウダージ 第3番 (ディアンス)
- 2つの舟歌 (クレンジャンス)
- 亡き王女のためのパヴァーヌ (ラヴェル)
- ジムノペディ 第1番 (サティ)
- 亜麻色の髪の乙女 (ドビュッシー)
- ギターのための幻想曲 (ブレヴィル)
- 月の光 (ドビュッシー)
コンサートの前半は、最新アルバム「リュミエール」から何曲か。フランス物が中心となっている。曲の出自としては、ピアノ曲から編曲されたもの(3,4,5,7)と、もともとギターのために書かれた曲(1,2,6)にわかれる。個人的には、やっぱり後者のほうがいいな、と感じた。ピアノ曲由来のものは、どうしても甘いメロディが中心に据えられたものが多く、村治さんのシャープなリズム感が好きな私としては、なにかもうひとスパイス欲しいな、と思ってしまうことが少なくないのだった。対して、ギターのための曲には舞曲的なリズムに基づくものが多く、村治さんの持ち味が十二分に発揮されているように聴こえたのだ。
村治さんのコンサートに足を運んだのはこれで3回目で、その度に同じことばかり書いているのだけれど、やっぱり今回も書いてしまおう。
「彼女の音楽は立ち姿が美しい」。
強い集中力と卓越したテクニックに裏付けられた理知的な音色のバランス感覚と、先ほども書いたとおりの、シャープなリズム感。音楽のキリッとした立ち姿に薫る、クールな色気。CDで聴いても実演で聴いても、つくづく「格好いい音楽だな」と感じる。
ちなみに、前に来た2回のコンサートと決定的に違う(個人的な)ことは、今回は、なんと席が前から5列目であること。これまでは、なぜか後ろから数えたほうが早い席しか入手できず、演奏中の村治さんのお姿はよく拝めなかったのだ。今日はよくみえる。一曲終えるたびに、ニッコリと微笑む顔がすげぇキュートっす。
[後半]
- カヴァティーナ (マイヤーズ)
- マイ・フェイヴァリット・シングス (ロジャース)
- コーリング・ユー (テルソン)
- 夏は知っている (ルグラン)
- アイ・ウィル・ウェイト・フォー・ユー (ルグラン)
- ファウンテン (大島ミチル)
後半は、FM802のDJ、シャーリー富岡さん(マイケル富岡さんのお姉さんだそうな)をゲストに向かえ、トークを交えながら映画音楽を演奏。実は、当初(12月)はゲストとして作曲家の大島ミチルさんが予定されていた。演奏会延期のため急遽代役として呼ばれた経緯があるだけに、どんな話題になるのだろうか、とちょっと不安を感じていたのだけれど、さすがは熟練のDJさん。プライベートな話から、今後のアルバムの予定、海外経験のエピソードまで、自然と村治さんから話をひきだしていたので、結構楽しめた。
演奏では、私の好きなミッシェル・ルグランの曲が2曲も演奏されたのがうれしい。ルグラン特有のつぶやくようなメロディが村治さんのクールなスタイルで奏でられると、なんというか、都会的な切なさが匂い立つようで、本当に魅力的。
[アンコール]
- アルハンブラ宮殿の思い出 (タルレガ)
- タンゴ・アン・スカイ (ディアンス)
アルハンブラは、ナルシソ・イェペスの演奏で聴くと、色彩的でスペインの土のにおいがするが、村治さんが演奏すると、透明感すらおぼえる美しい曲となる。この、右手の回転が尋常でない曲を安定感抜群に弾ききり、疾患からの回復をアピール。
タンゴ・アン・スカイは彼女がアンコールで好んで演奏する曲で、勝手に私は彼女の看板曲だと思っている。4年前、彼女を初めて聴いたコンサートで「アランフェス協奏曲」の後にアンコールとしてこの曲が演奏されるのに触れ、「うぁお! これは、ソロコンサートも行かなければ!」と思ったのが、今日に繋がっている。今回も、大胆にして繊細、キレのある演奏。美味しゅうございました。
また大阪でコンサートが開催されれば、万難を排し、多分行くでしょう。
はじめてだよ…。
7月におこなわれる、小澤征爾氏の復帰コンサートのチケット取得失敗。
事前予約には抽選でハズレ、本日十時からの電話合戦にも敗北した。今日は土日としては珍しく、がんばって十時前に起きたのにな。
クラシック音楽のコンサートでチケットが取れなかったことって、はじめてじゃないかな。うーん、残念。小澤氏をいっぺんくらいは聴きたいぞ。
21 May
2006
身の丈に合ったベートーヴェン
兵庫県立芸術文化ホールに、パーヴォ・ヤルヴィ指揮のドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団を聴きに行ってきた。オール・ベートーヴェン・プログラム。
- 「コリオラン」序曲
- ヴァイオリン協奏曲
- 交響曲 第3番 「英雄」
指揮者のパーヴォ・ヤルヴィ氏は北欧の作品を中心とした録音を多数発表していて、最近評判のいい指揮者なので楽しみにしていた。また、彼の父親ネーメ・ヤルヴィは世界的に有名な指揮者で、その父も今年7月に来日の予定がある。(なぜか)京都市交響楽団を振るようなので、聴きに行く予定だ。親子の芸風の聴き比べも面白そう。
さて、冒頭のコリオランから明らかだったのは、パーヴォ・ヤルヴィ氏はかなりピリオド・アプローチを意識した音楽作りをしているということだった。ピリオド・アプローチというのは、その音楽が作曲された当時の演奏法や演奏スタイルに関する研究成果をもとにして長年の慣例的な解釈を洗い落としてみようという、このところ流行りのアプローチ。判りやすいところでいうと、金管楽器やティンパニは現在とは少し違った形の楽器を用いたり、弦楽器は演奏時にビブラートを控えたりする。
今日演奏された全ての曲に共通して言えることだが、ピリオド・アプローチの常として、音楽のテンポは概して速め。他の演奏に慣れている耳には「えっ、その速度でいくの?」と戸惑ってしまう程だった。
そしてヤルヴィ氏は、強いアタックを与える音と、撫で付けるように奏する音とのコントラストをかなり強調してみせる。また、しっかり休む休符と、あまり休まない休符もハッキリと区別する。前者では休符前の音を短く切って、明確な音の空白を作るのに対し、後者では休符前の音を漸弱、その次の音にフッと繋いで切れ目を意識させない。
ところが、そのように部分部分を聴くと極端なコントラストを与えているにも関わらず、音楽全体を聴いていると、急激な明暗のコントラストの変化に戸惑うことがない。むしろ、感情的な流れの連続性がとても大切にされているようにさえ感じるのが面白かった。
というのも、ヤルヴィ氏は、ひとつのフレーズから別のフレーズへ移り変わるときの間合いの取り方がなんとも巧み。刻むようなリズムから、その勢いを殺さずにスルスルッと滑らかな旋律に滑り込んでいったり、静かな弦の歌のバックで徐々に管楽器のリズムを強調していき、いつの間にかオーケストラ全体に大きなリズムの渦をつくりあげていたりする。小編成の響きの見通しのよさや機動性を最大限に生かした、快活さと繊細さのバランスのとれた演奏が気持ちいい。仰々し過ぎず、かといって決して小ぶりではない、とても親しみやすいベートーヴェンだな、と感じた。
ヴァイオリン協奏曲のソリストは、ヒラリー・ハーンさん。当初は諏訪内晶子さんの予定だったのだが、諏訪内さんが急病になったため急遽代役で登場した。ところが、これが大当たり。
ヒラリー・ハーンさんはほぼ私と同年代(3~4歳下かな)の女性ヴァイオリニスト。協奏曲冒頭の聴き慣れたフレーズから、その肩肘張らない、素直で伸びやかな歌にゾクゾクした。
ハーンさんの演奏を聴いていて感じたのは、「ベートーヴェンは、実はこんなにも身近な音楽なのか」ということだ。彼女は、ベートーヴェンの演奏にありがちな、「苦悩から栄光へのドラマ」や「考え抜かれた構築性」といった枠組みに捕らわれ過ぎず、あくまで全てのフレーズを自分自身の中で消化し切って、自分の歌として演奏することに徹しているように聴こえた。背伸びせず、大袈裟な身振りもせず、ただ純粋な心をもって、26歳の彼女が共感できる等身大のベートーヴェン像を描きあげる。
仰ぎ見るような巨大な音楽ではない。情念が沸き立つ興奮があるわけでもない。しかし、私の心は強く惹きつけられて時間が経つのを忘れてしまう程だった。こんなにベートーヴェンを近くに感じ、いとおしくさえ思ったことは、これまでなかった。
ハーンさんが、ベートーヴェンのフレーズを全て自分自信の声として再現することができたのは、もちろん、彼女の完璧なテクニックあってのことだ。相当難しいと思われるフレーズでも、技巧的なハードルを超えていることを意識させないほど技も音も磨き抜かれている。おかげで、聴き手は純粋に音楽的な表現へと集中できるわけだ。
アンコールは、バッハのパルティータ2番からサラバンド。バッハの無伴奏といえば、牧師が聖書を朗読するが如く神々しい演奏が多い中、彼女の演奏は、やはり彼女自身の声による、共感に満ちた等身大の音楽。聴いていて心が震えた。
40歳、60歳となったときの、彼女の演奏も聴いてみたい。きっと、今とはまた違った視点から捉えた、素晴らしい演奏を聴かせてくれるだろう。
オーケストラの演奏といい、ヴァイオリンの演奏といい、ベートーヴェンがとても身近に思え、この作曲家に対するイメージが少し変わったかもしれない。
オーケストラのアンコール曲は、グリーグの「悲しきワルツ」。ヤルヴィ氏お得意の北欧物だ。中間部に入る直前は、会場全体が息をのむほどの超最弱音で演奏して、オーケストラの桁外れの表現力をアピール。また後半はテンポを超高速に切り替えて音楽を疾走させ、これまた桁外れの機動力をアピール。単に技術的なお遊びにならず、聴き手の心を捉える「音楽」になっているのがお見事。
美味しゅうございました。
24 May
2006
たまにはオペラも。
本日あった、大阪フィルハーモニー交響楽団5月の定期演奏会の演目はオペラの演奏会形式公演で、ドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」。
演奏会形式というのは、オペラを最初から最後まで通してやるものの、舞台装置や衣装などは省略して、オーケストラと歌手が一緒に舞台に上がり、簡単な身振り手振り程度のお芝居で物語を進めていくことをいう。大阪フィルは一昨年から年に一回定期演奏会でオペラ上演をすることにしているようで、「サムソンとデリラ」(サン・サーンス)、「トスカ」(プッチーニ)に続き、これが3回目。3回しかやってないのに、フランスものを取り上げるのが2回目。ちょっとかわったセレクトではある。
私はオペラにはぜんぜん詳しくないので、この作品を通して聴いたのは初めてだった。それゆえ、まず「不思議な作品だ…」といった感想が心の中に湧き出てきた。
たとえばこの作品、オペラ初心者の私にでもわかるほど、構成が変わっている。ふつうのオペラなら、いわゆるアリアと呼ばれる朗々とした歌唱が随所に織り込まれるものだけれど、「ペレアスとメリザンド」では2時間以上ある作品全体のどこを探しても「明確な歌」がない。歌手は、歌と台詞の中間のような「旋律的語り」で言葉(フランス語)を発するのだ。それを、ドビュッシー特有のもやーっとしたオーケストラの音が包み込む。最初はつかみ所がないので戸惑ってしまったが、時間が経つにつれて、これはこれで心地よくなってきた。空気感を味わう、とでも言うか。
そして、物語もちょっとかわっている。象徴派の詩人(メーテルリンク)が台本を書いているだけに、随所に妙に暗示的な台詞や場面がちりばめられており、しばしば暗示的過ぎてなにをいわんとしているのかちっともわからなかったりする。もっとも、演奏会形式のために視覚的補助が著しく少ないため、というのもあるかもしれないが。
物語の結末も、なんというか歯切れの悪い終わり方で(物語がまずいという意味ではなく、暗示的な終わり方をするから、とでもいうか)、幕引きの後もしばらく「うーむ」と心の中でうなってしまった。
指揮は舞台音楽経験の豊富な若杉弘氏。わかりやすくシンプルな指揮で、長丁場を破綻なくまとめていた。歌手はペレアスが近藤政伸氏、メリザンドが浜田理恵さん。やはり、人間の声には、楽器にはない独特の美しい響きがあるんだな、と再認識した。
いやはや、なんだかこれまで味わったことのない不思議な味でございました。
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29 May
2006
眼の前に自分でぶらさげる人参?
ウラディミール・フェドセーエフ指揮、モスクワ放送交響楽団。この人たちがコンサートをするというのなら、私はなにをおいても駆けつける。高校の頃からファンだった女優さんの舞台挨拶だって…。
数年前にはじめて彼らの演奏を聴いたときの感激は、いまでもハッキリと思い出すことが出来る。チャイコフスキーの「四季」(ガウクによるオーケストラ版)が発する香気に痺れ、「生きていてよかった」とさえ思えた。仕事が立て込んでつらい時期でもあったので、「『また彼らのコンサートを聴く』ことを目標にして、つらいことも乗り越えていける」なんて真面目に考えたりもした。
また、フェドセーエフが今年の一月に東京フィルに客演してカリンニコフの交響曲第一番を振ると聞いたときは、いてもたってもいられなくなって、会社を休んで東京までコンサートを聴きにいった。その翌週は、名古屋フィルで「くるみ割り人形」を振るというので、やっぱり会社を休んで名古屋へ。ゆっくりとしたテンポで、ロシアの土の匂いをプンプンさせながらうねっていたカリンニコフの旋律や、独自の選曲で色彩豊かに聴かせてくれたくるみ割りは、やはり忘れられない想い出だ。
そんな彼らが本日準備したプログラムは、オール・ロシア物。しかもファンの期待にたがわぬド直球。
- チャイコフスキー 祝典序曲「1812年」
- チャイコフスキー 弦楽セレナード
- ショスタコーヴィチ 交響曲第10番
1812年は金管・打楽器炸裂の轟音物。弦楽セレナードは、むせび泣くようなロシアの歌に溢れた艶歌物。ショスタコの10番は、底知れずひねくれて陰鬱なソ連物。フェドセーエフとモスクワ放送交響楽団の魅力の全てを味わえる選曲。主催者に感謝!
まず、冒頭の「1812年」。うーむ、なんでおいら、こんな曲で泣いちゃうかなぁ。楽曲の終盤、鐘の乱打が響き渡る中を、金管が、突き刺すような鋭い音色で勝利の歌を高らかに歌うのを聴いていると、思わずウルウルきてしまった。「こんな音を出せるひとたちが世の中にいるなんて…」やっぱり、生きててよかったよ。
弦楽セレナードも、有名なカラヤンの音盤とはひとあじもふたあじも違う、濃密で独特の色彩感を持った響き。キラキラ光るのとは違う。極彩色というわけでもない。くすんでいるようでいて、しかし同時に見るものをギョッとさせるような生々しさももつ、濁った油絵の具みたいな色。
フェドセーエフはゆっくりと粘るようにして旋律を描いて見せるが、土臭いようでいて、実は細部に対する心配りが他に類を見ないほど行き届いているように聴こえる。各旋律間の息継ぎ、一音一音のアティキュレーション、各パート間での旋律の受け渡し、すべてに関して指揮者の意思がオーケストラの隅々にまで届けられ、自然に、そして驚くほど丁寧に音化されていく。
フェドセーエフがこのオーケストラの主席指揮者になったのは、実に1974年。30年以上かけて作られた彼らの響きは、まさに世界中どこを探しても彼ら以外に再現できない、ワン・アンド・オンリーのサウンドと言っていいと思う。
後半のショスタコーヴィチも素晴らしかった。ギスギスしたアイロニーに満ちたショスタコの音楽が、やはりまぎれもないロシア・スラヴの音楽なのだということに、彼らの演奏はまず気付かせてくれた。
この作曲家の作品は、聴いていてよく「頭でっかちに過ぎるんじゃないか」と思ってしまうことがあるが、大きなスケール感と色彩豊かなロシアの歌を大切にするフェドセーエフの指揮で聴くと、音楽に織り込まれた表現のひとつひとつが、なにか妙に人間的というか、心の奥底からどうしようもなく込み上げてくる複雑な思いが或る意味不器用にぶちまけられているように聴こえる。素直でない表現の裏にピッタリと張り付く涙や愛情に自然と心を致させてくれるとでも言うか。
私はこの約一時間にも及ぶ作品を、息を殺すようにして没入し、むさぼるようにして聴いた。ショスタコーヴィチの音楽にこれほど集中できたのは初めてかもしれない。
アンコールは、ショスタコーヴィチの舞台音楽「条件付きの死者」からワルツと、同じく映画音楽「司祭と下男バルダの物語」から行進曲。フェドセーエフとモスクワ放送響の上手さが最高の形で出た、強烈な演奏だった。クッキリと浮き立つ節回し、強靭な金管と打楽器に支えられた重心の低い響き、聴き手の心を鷲掴みにして離さない音楽構成。もう、興奮で頭が真っ白になった。
ありがとう、フェドセーエフ氏、そしてモスクワ放送響。また、あなたたちのコンサートを再び聴ける日を楽しみにしてこれからも生きていきます。いや、大袈裟ではなく。
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05 June
2006
漢字で書けば馬友友
デイヴィッド・ジンマン指揮のチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団のコンサートに行ってきた。このコンビが日本ツアーをおこなう、というだけでも私にとっては大ニュースだが、随行する独奏者が“あの”チェリスト、ヨーヨー・マであるというのが公演の最大の売り。しかも、演奏曲目がドヴォルザークのコンチェルトという、王道中の王道ときている。
- ドヴォルザーク チェロ協奏曲 (独奏:ヨーヨー・マ)
- シューマン 交響曲第2番
ヨーヨー・マはピアソラを弾いたCDが広く売れたり、サントリーのCMに出て知名度を上げたりしたこともあって、コンサートにも、おそらく日頃はクラシック音楽のコンサートには足を運ばないのであろうお客さんも多数来ていた模様。これまで数多くのコンサートに通ってきたが、「立ち見」が出たのに遭遇したのは初めてだ。ホール最後部の通路に、40~50人は立っておられた。ちなみに、立ち見のチケット9000円也。しかし、コンサート前半と後半の休憩時間にラウンジでコーヒーを飲んでいたら、近くに立っていた女性が「えっ、もうヨーヨー・マ出てこないの?!」と同行者に言っているのが聞こえたのはさすがに苦笑したけれど…。ジンマン指揮のチューリッヒ・トーンハレも素晴らしいオーケストラだから、ちゃんと聴いてあげてくださいよぅ。
やっぱり、ヨーヨー・マ氏のドヴォルザークは聴き応えがあった。この曲の隅から隅までを知り尽くした自信に満ち溢れた演奏だった。しかも、この曲に対する“慣れ”を決してルーチンワーク的な“十八番”を完成させる方向に使うのではなく、オーケストラと一体になって、さらに新しい可能性を探っていくための力にしているような様子が聴き取れたのが面白い。聴いている間中、私の頭をめぐっていたのはこんな印象だ。
「これは、指揮者はデイヴィット・ジンマン氏じゃなくて、ヨーヨー・マ氏だな。完全にチェロで指揮してるよ…」
マ氏は、独奏者としてはちょっとこれまで見たことないくらい、オーケストラのメンバーとアイ・コンタクトをとりながら演奏していた(演奏の間じゅう、キョロキョロしていたと言ってもいいくらい)。そして、オーケストラの音色に耳を傾け、「なるほど、そっちはそうくるか。じゃあ、ボクはこんなふうに弾いちゃうよ。さあ、どうする?」と“対話”を仕掛けているのだ。オーケストラの歌にオブリガードを付けるときも、単なる合いの手に徹することはなく、「あ、いいね、その歌。ボクも入れてよ。でさ、もうちょっとこのあたりのリズムを強調したら、もっと楽しくなるんじゃね?」と、オーケストラ側に刺激を与える。
そんな音楽的対話を繰り返すうち、オーケストラの各パートに笑顔の花が咲き、見る見る間にオーケストラの音色や節回しが大胆な表情をみせ、熱っぽさを帯びてくるのがわかる。
瞬間瞬間のヒラメキを積み上げて、熱狂を作り上げていく。ライブでこういうのを聴くと、本当にエキサイティングで面白い。音楽が進むにつれ、「えっ、これがジンマン指揮のチューリッヒ・トーンハレの音?」と驚くような色に染まっていく過程をワクワクしながら楽しんだ。
デイヴィット・ジンマン指揮、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団の演奏に初めて触れたのは、パメラ・フランクがヴァイオリン独奏をつとめる、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲全集のCDを聴いたときだ。
「なんて、素直で、透明で、柔らかな音楽なんだろう!」
惚れ惚れした。ひとりひとりの奏者の演奏が粒立ちよく自己主張しながらも、全体としては抜群に見通しのよい響きの調和がとられている。フレージングは、清純と表現したくなるほどまっすぐで素直な伸びやかさをたたえているのだけれど、同時に聴き手の心を掠め取るような、美しく、豊かな表情に満ちている。明らかに、他のオーケストラでは聴いたことのない個性を持っている。
その後聴いた、彼らのベートーヴェン交響曲全集
(なんと5枚組で3000円)も同様。この全集は、いわゆる廉価版であるにも関わらず、世界の様々なレコード賞を得たようだ。さもありなん。
コンサート後半のシューマンの第二交響曲は、そんな彼らの良さがストレートに出た爽やかな演奏だったので、聴いていてとても嬉しくなった。第二番は、シューマンの書いた交響曲の中では比較的地味な存在と言っていいと思う。確かに、シューマン独特のどことなくアンバランスなリズムに、いまいちはっきりしない旋律と構成で、聴いていると、なんだかゴチャゴチャしてるな、と感じることが多い。
しかし、彼らはお得意のまっすぐで澄んだ響きで音楽から靄を取り払い、清らかな生気溢れる表現力で、リズムや音楽の流れを若々しい躍動感へと見事に昇華させていた。 お見事。やはり、他の指揮者とオーケストラのコンビでは聴けない演奏だったろう。聴きに来てよかった。
前半も後半も、奏者の個性が発揮されたエキサイティングな音楽が満喫できたので大満足。本日も美味しゅうございました。
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08 June
2006
音楽で建築を連想は強引すぎかな?
またまた、定時で会社を抜け出してコンサートに行ってきた。私の大好きなシベリウスの交響曲第7番が演奏されるので楽しみにしていた、秋山和慶指揮、大阪センチュリー交響楽団の6月定期。
- シューマン 「マンフレッド」序曲
- シューマン ピアノ協奏曲 (ピアノ: コルネリア・ヘルマン)
- シベリウス 交響曲第7番
コンサート前半がシューマンで、後半がシベリウスの比較的短い交響曲という、ちょっと珍しい演目だ。
大阪センチュリー交響楽団を聴くのは、また清純派女優と噂になった金聖響氏のコンサートに何度か足を運んで以来だと思う。金氏の指揮で聴いていたときから感じていたことだが、このオーケストラは、感心してしまうくらい、とってもまじめだ。指揮者の指示に対して非常に敏感かつ忠実で、しかも正確にそれを音化する。
マンフレッド序曲を聴いていても、秋山氏の棒の動きに同期して、大きく音色が膨らんだり、小気味よく弾んだりする様子が気持ちいい。あともう一歩、オーケストラ側から踏み込むことがあってもいいのでは、と思う瞬間もなくはないのだけれど、それはこのオーケストラが目指す芸風とは違うのかもね。
うまく音楽のスケールを伸縮させることでうねるような推進力を得て、なかなか聴き応えのあるマンフレッド序曲。
続くシューマンのコンチェルトで独奏をつとめたコルネリア・ヘルマンさんは、私と同い年の女性ピアニスト。なによりもまず、その音色と表現の硬質なことに耳を奪われる。
まるで、彼女が一音弾くたびに、硬く小さいガラス片がコツンコツンと落ちてくるような印象。音楽が見せる表情も、無機的というと聞こえが悪いが、非常にスクウェアでクールなことに、最初は戸惑いさえ覚えた。
しばらく聴いていてふと頭に浮かんだのは、突飛かもしれないが、現代建築のことだった(先日、テレビで丹下健三氏のドキュメントをみていたからかもしれない)。特に、彼女の演奏と直感的に結びついてしまったのは、安藤忠雄氏あたりが好んで設計する、コンクリート打ちっぱなしの幾何的な造形をした建物がもつ美しさ。
一昔前の世代までは、美しい建築と言えば、石造りの重厚さや、木造の温かさなどが基準になっていたのだろうと思う。しかし現代の私たちは、それらに加えて、直線的な輪郭とコンクリートの温度感が醸し出すモノトーンの“美しさ”を知ってしまっている。おそらく、昔の人たちは全く想像だにできなかった美しさに対する感覚を得ているのだ。(なんだろう、絵画で言えば、モンドリアンを知った後で、いつまでもルネッサンス的な美意識にばかり拘泥している必要もないでしょう、ってところかしらん)
だから、音楽を表現するにあたっても、そんな価値観に沿って“美”を求める感覚を持つ人がいていいはずだ。生まれたときからその種の“美”が当たり前のようにして存在した私たち以降の世代なら、なお一層のこと。
そんな思いは、彼女がアンコールで弾いたシューマンのアラベスクを聴いていて、なお強くなった。ガラスと鉄材とコンクリートで作った幾何学的な彫刻を見ているみたいな気分になりながら、これはこれでひとつの完成した価値観の世界だな、と得心したのだった。
他のレパートリーで、また彼女のピアノを聴いてみたい。20世紀の作品なんかかなり似合うかも。バルトークやプロコフィエフなんていかがでしょう。
さて、後半は前述の通り私の大好きなシベリウスの第七交響曲。
私は、この曲を聴くたび、「河のような音楽だ」と感じる。冒頭、ゆっくりと音階が上がっていく部分では、まるで地下から水が湧き出てくるような印象をうけるし、最初は薄い響きの音楽が徐々にスケールを増していく様子は、方々から細かい水流が集まり、やがて大河へとなっていく様子を連想させる。そして、曲がりくねって様々な地を河は流れてゆき、最後にはゆったりとした波をたたえて、大海へ流れ込む。フィナーレで聴ける余韻たっぷりのオーケストラの響きは、眼前に広がる大海原の深さや優しさを表現しているように聴こえる。もちろん、この「河」というのは、「人生」の暗喩なわけで。(以上、断っておくけど、私の勝手な解釈デス)
秋山氏は、音楽の流れが寸断されないように注意しているのか、響きに空白ができないようにすることを心がけて旋律を繋いでいっているように聴こえた。冒頭から、かなり水量多目で、源流から結構太めの水流が出てきているかんじかな。
ここでも、オーケストラはきっちりと秋山氏の要求を音化して、音楽は伸び縮みしながら進んでいく。そのうねりが、音楽の頂点に至る興奮を上手く演出していて、フィナーレはスケール感充分。充実した表現にゾクゾクし、感激した。
この交響曲、今シーズンでは、冬に京都市交響楽団が井上道義氏の指揮で演奏する予定になっている。こっちを聴きに行くのも楽しみだな。
16 June
2006
マッシヴだなあ
六月の大阪フィル定期、指揮は広上淳一氏。
広上氏を聴くのは多分これで四回目かな。指揮姿を見る度に
「中国製のカラクリ人形にこんなのあるよな~」
と思ってしまうのは内緒だ。今日も、いつものように満面の笑みで首をゆらゆらさせながら全身をカクカクとする様子を見ていると…。
- 武満徹 「弦楽のためのレクイエム」
- グバイドゥーリナ フルート協奏曲 (独奏 シャロン・ベザリー)
- シューマン 交響曲第三番「ライン」
最初の武満は、先日亡くなった指揮者、岩城宏之氏に捧げられた演奏。そういえばこの曲、今年の二月に岩城氏の指揮(京都市交響楽団)で聴いたんだよな。あのときはだいぶ調子よさそうだったのに…。
広上氏指揮のレクイエムは、響きの混ぜ合わせ方が面白かった。どうやら合奏の縦の線をあわせすぎないように気を付けているように聞こえる。それぞれのセクションが発する旋律が、調和を保ちながらも互いに相手をあまり縛りつけず、ふわふわと近寄ったり離れたりする感覚が心地いい。
グバイドゥーリナは、武満と交流もあったというソヴィエトの作曲家。金属系打楽器を多用したキラキラ音響が印象的な作品だった。ベザリー女史は、通常のフルートとアルト、バスの三本を吹き分け。短くシンプルな音形が繰り返されるのが、なんだか呪術的な印象さえ抱かせる。魔女が呪文をとなえているような、とでも言うか。ということで、色彩的にきらめくオーケストラは、言うなれば魔女が覗き込む薬壷に入った怪しい液体が、魔女の呪文に呼応してモワりと色のついた煙をあげたり、怪しい光彩を放つ泡を浮かべたりする様子を想起させる。
アンコールはドビュッシーの「シリンクス」。柔らかく、滑らかな音楽の流れに、気持ちいいフルートの音色。耳触りのいい音楽だなぁ。
コンサート後半はシューマンのライン交響曲。冒頭から、大音量かつ線の太い主題提示に圧倒された。マッシヴなパワーでぐいぐい押してくる音楽のエネルギーがすごい。
かなり速めのスピードで、音量は迫力満点。シューマンのオーケストラ作品は、弦を細かく刻むことが多いのでモヤッとした響きになりがちなのだけれど、ひとつひとつの音を奏者にかなり力強く弾かせることで、がっちりとエネルギーを音楽に注入。しかも、広上氏はエネルギーが拡散、暴走しないようにきっちりと音楽の方向性を示し、音響も濁らせない。それぞれの楽器がかなり力いっぱい歌っても、お互いをかき消すことはなく、しっかりとひとつひとつの音が元気よく聴衆の耳に飛び込んでくるのがなんとも爽快だ。
いやはや、大阪フィル、指揮者への反応のいいオーケストラになりましたね。
04 July
2006
おとっつぁんスゴい!
京都市交響楽団のコンサートに行ってきた。指揮者はネーメ・ヤルヴィ。5月に聴きに行ったドイツ・カンマー・フィルを指揮していたパーヴォ・ヤルヴィの父上であり、北欧や旧ソ連ものを中心とする膨大なレパートリーで世界的に名高い名指揮者だ。私は何ヶ月も前からとても楽しみにしていた。
- グリーグ 「叙情的組曲」
- グリーグ 「4つのノルウェー舞曲」
- チャイコフスキー 「交響曲第4番」
コンサート前半は、お得意の北欧物。グリーグの小品集だ。いずれも、ピアノ曲からの編曲で、グリーグらしい素朴さが魅力。
父ヤルヴィの指揮は、すこし聴いただけで「うーん、さすが」と思える素晴らしいものだった。
なによりも心を奪われたのは、雄大な音楽の流れ。滔々としたスケールの大きさを感じさせながら、その中に繊細な表情の変化がある。つまり、ひとつひとつの旋律をとると、各奏者にかなりのびのびと奏でさせている一方で、音楽全体の運びについては、指揮者が膨張・収縮を絶妙にコントロールしているのだ。一瞬一瞬の歌にもうっとりさせられるし、ドラマティックな音楽的表情の移ろいにもうっとりさせられる。
暖かく、感情豊かな響きに乗って、グリーグのシンプルでチャーミングな旋律が笑顔で舞う。むむ、グリーグがたまらなく好きになってしまいそうだな。
なんと嬉しいことに、前半のアンコールがあり、ノルウェー舞曲の第2曲を再度演奏。木管セクションが大活躍で、すばらしい響きを聴かせてくれた。
後半のチャイコフスキーもすごい。何度も聴いたことのある第4番ながら、耳が洗われるような新鮮さを感じさせてくれる感涙ものの演奏だった。
まず驚いたのは、第一楽章の主題提示。この楽曲の第一主題は、妙に覚えにくいというか、もってまわったというか、不可解な旋律なのだけれど、それがとても自然に、しかも薫り高く歌われるのを聴いて息をのんだ。
そしてそれ以降も、前半のグリーグと同じく、大河のように懐が深くダイナミックな流れと、表情豊かで伸びやかな歌が見事に同居した壮大な音絵巻が展開されていく。すでによく知っている曲なのに、ずんずんと耳と心が吸い込まれてゆき、どんな展開になっていくのだろうかと息を潜め、興奮した。
特に象徴的だと感じたのは第二楽章冒頭。オーボエ独奏による哀愁漂う旋律が、かなりリズムの伸縮を伴いながら、思い入れ一杯に提示される。それを各楽器が模倣して音楽が広がっていく様子が筆舌に尽くしがたいほど美しい。また、父ヤルヴィは主旋律以外のパートに細かく指示を出して上手く前に出してくることで、さらに音楽を芳醇で感情豊かなものにしてみせる。すごいよ、さすがだよ、おとっつぁん。
京都市交響楽団も、この楽団が上手い指揮者のもとで一丸となったとき特有の高い集中力と強力な底力が全開となり、ヤルヴィの要求にガッチリ答えていた。最終楽章でみせた巨大音響の疾走もお見事。打楽器は気持ちよくキマっていたし、金管もよく響いていた。そして、音楽の響きの大小が単なる音量の大小ではなく、音楽的表現の大小へと完璧に繋がっていたのも特筆もの。
最終楽章が終わるとともに、ちょっと京響の定期では覚えがないくらいの爆発的な拍手が沸き起こった。確かに、このチャイコフスキーの4番はしばらく忘れられそうにない。これだからコンサート通いはやめられないんだよね。
父ヤルヴィ、よほど京響がお気に召したのか、前半に続き、後半でもアンコールに応えてくれた。モーツァルトの「歌劇『後宮からの逃走』序曲」。なかなか本格的な楽曲を用意していた。演奏はもちろん、生気に満ちた、心奪われる演奏。今日の京響、最高にノってますね。
アンコール後も何度も舞台に呼び出す聴衆の拍手に対し、父ヤルヴィは譜面台を探り、表情で「もっとやりたいけど、もう用意している曲がないんだよ」とおどけてみせるサービスぶり。
ヤルヴィ翁、また来てくださいね!
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09 July
2006
アグレッシヴな演目
ベルギーの歌劇場で数々のアグレッシヴなプロジェクトを成功させたことで、近年欧州を中心に評判の指揮者、大野和士氏が大阪フィルに初登場。
それにしても、初登場としてはなんとも演目がマニアックなことよ。
- モーツァルト 交響曲第33番
- 細川俊夫 打楽器協奏曲「旅人」 (打楽器:中村功)
- ショスタコーヴィチ 交響曲第15番
コンサート冒頭は、モーツァルト生誕250年らしく…というかなんというか、交響曲第33番。かなり通好みの選曲だ。名指揮者のカルロス・クライバーが晩年なぜか好んでよく演奏したものの、到底有名曲とは言えないだろう。
大野氏は結構速めのスピードで音楽を運んでいた。拍はかなり軽め。ときどき付けるアクセントも、リズムを抉るかんじは皆無で、どちらかといえば音を撫で付けるような感触だ。極端に言えば各々の楽器が一拍ずつ足並みをそろえていくことを要求している様子はなく、その結果、各パートが坂道を転げ落ちるようにコロコロッと走っていく。一聴すると「あれ、これで制御できるの?」とハラハラしてしまうが、大きく判りやすい身振りで、要所要所において手綱をクイッと引く。このスリリングさが評判の所以なのかもしれないな。
続いて、現代日本人作曲家の作品を関西初演。これまた意欲的な選曲だ。
独奏者が操るのは、10種類近くの大小様々な打楽器(大太鼓から風鈴まであった)。ボンゴの強烈な一打から開始する楽曲は、「打楽器協奏曲」というジャンルから想像してしまうような血沸き肉踊るリズムの祭典には完全に背を向けているようだった。むしろ、一打一打が極めて内面的な精神の緊張感を演出してゆく。
例えるならば、居合道の達人が、ピンと張り詰めた精神状態でツッと小さく手を動かしたり、視線を動かしたりする度に(これが打楽器の一打一打)、周囲の空気感がフッと変わったり、体感温度がパッと変わったりする(これが打楽器に対峙するオーケストラの響き)様子を見ているようだったとでも言うか。
現代音楽としては、演奏終了後の聴衆の反応も驚くほど上々。立ち上がって拍手している人も沢山いた。私も、拍手、拍手。もう一度聴きたいですか、と問われれば躊躇いなく“Yes!”だな。
コンサート後半は、旧ソ連の作曲家、ショスタコーヴィチの交響曲第15番。どこまでディープに攻めるつもりなんだろうか。なんでまた敢えて15番。
ショスタコーヴィチは、不釣合いにでかい脳味噌を載っけた骨と皮だけの身体が、乾いた笑い声をあげてケタケタ踊るような音楽を書いた人だと思う(ファンには怒られそうだが)。ところが、最後の交響曲であるこの15番では「ついに脳味噌までひからびてしまいました」といった風情で、常人には理解不能な壊れ切った精神の砂漠状態が描かれている…ように私には聴こえる。少なくとも、聴いていて楽しい、気持ちのいい音楽ではない。
大野氏は、楽曲中のいくつかの旋律を比較的流麗に弾かせることで、楽曲全体がバリバリに渇いた代物になることから救っているようだった。ただ、その流麗さが、時にグロテスクさを強調したのも印象的。特に、最終楽章。ここでは、なぜかワーグナーの音楽の引用からはじまり、それに続いて第一主題が演奏されるのだが、大野氏はその主題を澄んだ音で美しく歌わせていた。その後この音楽は、いくつかの主題がよくわからない展開を遂げた挙句、なんの脈略もなく、大昔にショスタコーヴィチ自身が書いた別の音楽の旋律をくちずさみはじめる。「あー、完全に壊れちゃったよ~」と思った矢先、その妙に美しい第一主題が回想される。その美しさが、かえって怖い。なんだかゾッとした。ソ連音楽の最終到達点ってこれなんですか?恐ろしい…。
CD以外では滅多に聴けない音楽なので、ロシア・ソ連音楽ファンの私は大満足。
大野氏は大阪フィルの音楽監督・大植英次氏と同じバーンスタイン門下というツテもあるので、今後ちょくちょく指揮台に登場して頂けるのではないかな、と期待している。今後もどんどんマニアックな演目を持ってきてくださいね。楽しみにしております。
31 July
2006
個人技と団体演技
PMFオーケストラの大阪公演を聴いてきた。
PMFとはPacific Music Festivalの略で、毎年世界各国から若手音楽家をオーディションで選抜してオーケストラを編成し、彼らへの教育・レッスンを兼ねた演奏会をおこなうプログラムだ。メイン会場は札幌なのだけれど、成果発表会という意味なのか、毎年この時期に東京・大阪・名古屋でコンサートをひらくのが恒例となっている。
指導教官とでも言うべき指揮者は、フェスティバルの創設者バーンスタイン以来、世界的にかなり著名な指揮者がつとめている。今年は、ワレリー・ゲルギエフ。マリインスキー歌劇場を拠点として活動する、現在ロシア出身では最も勢いのある指揮者。個人的には、ロッテルダム・フィル、ウィーン・フィル、キーロフ歌劇場管弦楽団、と3つのオーケストラで実演を聴いてきた。これで4回目のライブとなる。もしかしたら、大植英次に次いで多いかも。
ゲルギエフの指揮の特徴は、とにかくギラギラと脂ぎった熱さをもっていること。チェロ・コントラバスの地鳴りのような重低音、突き刺さるような金管、炸裂する打楽器、というロシア伝統のパワーの上に、集中力の張り詰めた濃密な表情付けを加える。けっこう波がある感も否めないが、ハマると結構すごい。特に今年はじめに聴いたキーロフとのショスタコーヴィッチは圧倒された。
今回のプログラムは、アニバーサリー・イヤーであるモーツァルト物と、お得意のロシア物。かなりボリュームがある。
- モーツァルト 「ファゴット協奏曲」 (独奏:ダニエル・マツカワ)
- ストラヴィンスキー 舞踊音楽「ペトルーシュカ」
- チャイコフスキー 「交響曲第5番」
ファゴット協奏曲はこれまであまり聴いたことがなかったのだけれど(CDを聴き流すくらい)、素朴でどことなくユーモラスなファゴットの響きと、優雅な弦楽器セクションとの戯れがいかにもモーツァルトらしくて素敵。気を抜いて聴いていると、心地よくて眠くなってくるような…。
昨年ネルロ・サンティに指揮されたPMFオーケストラを聴いたときにも感じたことだけれど、やはりオーケストラは臨時編成ということもあってやや合奏が荒削りな印象がある。確かに、個々人の技術は高いんだろうけど…“オーケストラ”という団体演技としてみたときに、なにかもうひとスパイス欲しくなる。ただ、指導教官の要求にガムシャラに喰いついてくるひたむきさが普通のオーケストラとは一味違い、それが一種の魅力を放っているのも事実。
複雑なリズムを持った音楽の代表選手である「ペトルーシュカ」の演奏も、とにかくゲルギエフの要求に力いっぱいぶつかっていく姿が面白い。若さの横溢した過剰な生気もまた眩しきかな。ゲルギエフが加速を指示すると、殆ど制御不能なまでに大音量・全速力で疾走を始めてしまい、聴き手をハラハラさせてしまうのもご愛嬌。管楽器のソロ奏者がかなり上手く、表情豊かな旋律を聴かせるものの、なんか合奏全体の流れから見たら浮いてねぇか?と思っちゃったのも、ご愛嬌だよね。
後半のチャイコフスキーは、必死さが目立ちすぎの感もあったストラヴィンスキーに比べ、余裕ができたのか、指導教官に忠実なのが非常にプラスに働いた満足度の高い演奏だった。
ゲルギエフの濃密な表情付けが正確に再現され、熱くロマンチックなドラマがスケール感充分に伝わってくる。とにかく演奏者が若いので、最後までスタミナが切れないのもいい。第四楽章の金管も力強く決まった。ゲルギエフの吸引力と、オーケストラの積極的なエネルギーがガチッと噛み合った音楽だった。
もちろん、常設のオーケストラが演奏したら、もうすこし纏まった、一般的な意味で完成度の高い演奏が出来たかもしれない。でも、なんだろう、私は野球のことはよく知らないのだが、野球好きな人が高校野球を見るときの目線に似ているのかもしれないな、なんて思ったりした。完璧ではないけれど、この溢れるエネルギー、ひたむきさ、そういったものが持っている魅力というのは確かにあるんだよね。
20 August
2006
抱腹絶倒、ではないけれど
落語を聞きにいってきた。岸和田市でおこなわれた「東西落語会」。出演者は桂歌々志、柳家花緑、桂雀三郎、笑福亭仁鶴、林家正蔵、桂ざこば。本来は人間国宝・桂米朝が出演する予定だったのだけれど、怪我のため休演で、笑福亭仁鶴が代打で登場。ちょっと変化球で対応、ってかんじだけど、これはこれで不満ございません。
- 歌々志 「子ほめ」
- 花緑 「片棒」
- 雀三郎 「ちしゃ医者」
- 仁鶴 「つぼ算」
- 正蔵 「読書の時間」
- ざこば 「遊山船」
ひとり20分くらいずつで、15分の休憩を一回挟んで計2時間半。楽しかったよぅ。
会場の岸和田浪切ホールは、1500席あまりの比較的新しい多目的ホールなのだけれど、三階席以外は殆ど満席。意外、といっては失礼かもしれないけれど、結構落語って集客力あるのね。しかも、米朝師匠休演にともなって払い戻しを受け付けていたのにこの出足。
つくづくすごいなあと思うのは、いわゆる「古典落語」では、殆ど話の筋を事前に知ってしまっているにも関わらず楽しめるところ。これが「話芸」の力なんだろうな。
あまり大学以降に他人に明かしたことはないのだけれど、実は個人的に結構落語には詳しくて、高校くらいまで、話をいくつか覚えてクラスメイトの前で披露していたりしていたこともあった(今思い返すと顔から火が出るほど恥ずかしいが)。だから、今回でも、演目の半分の話(「子ほめ」「つぼ算」「遊山船」)はすでに先まで読めているのに、それでも面白い。
特に仁鶴師匠のトボけた味わいがなんとも。登場人物同士の会話が、噛み合ってるような、噛み合ってないような、またその噛み合ってないのを楽しんでいるような空気がふわぁっと薫ってきて、思わずほほが緩んでしまう。確かに、抱腹絶倒、ではない。けれど、それ以上に幸せをもたらす香りがある。
また米朝師匠が復帰なさったら寄席に行ってみますかね。
27 August
2006
疑問はただ一点
先月に続き、京都市交響楽団の定期演奏会に行ってきた。今月唯一足を運ぶコンサート、ということになる。夏休み中は子供向けコンサートがポツポツあるものの、オーケストラもホールもお盆休みのため、コンサートの開催自体が少ない。
- ベルリオーズ 序曲「海賊」
- ショパン ピアノ協奏曲第1番 (独奏:中村紘子)
- ルーセル 「バッカスとアリアーヌ」第2組曲
- ラヴェル ラ・ヴァルス
コンサートのパンフレットには、コンサートのコンセプトとして「真夏のラ・ヴァルス~フランス音楽ア・ラ・カルト」と書かれていた。…およ? ショパンはポーランドだよね? 演奏会で配られた解説冊子には、ショパンは人生の後半でパリに縁が深く…というような言い訳が書いてあったが、ピアノ協奏曲第1番はパリに旅立つ前の作品のはず。
どうせフランス音楽を前に出すのなら、サン・サーンスかプーランクあたりのピアノ協奏曲を取り上げてくれたら、あたしゃ大喜びしたのになぁ。せめてラヴェルのコンチェルトじゃだめだったんだろうか。ちょっと謎。
まあ、そうはいっても夏休みということで来てくれそうな「ピアノ習ってる娘さんとその親御さん」というターゲットに対しては、「中村紘子がショパンのコンチェルトを弾く」というのは最高級の訴求となることは間違いないでしょうけどね。それならそれを前に出せばよさそうなものを。…まあいいか。
指揮はこの楽団の正指揮者、大友直人氏。
京都市交響楽団は打楽器と金管がしっかりしているためか、かなりリズムがガチッと締まっている印象を持っているのだけれど、これは大友氏の好みなのだろうか。冒頭のベルリオーズから、リズムが軽すぎず重すぎず、真面目に小気味良く刻んでいく感覚が心地よい。しかし、その正確なリズムのせいもあってか、なんだか妙に健康的な海賊だなぁ。ぜんぜん悪いことをしなさそう。これはこれで戯画的で楽しいけど。
さて、お次は中村紘子さん独奏のショパン。数ヶ月前にこれでもかというくらいに聴いていたコンチェルトの第1番。
中村紘子さんを聴くのは初めてだったのだけれど、聴いていてつくづく感じたのは、「押しの強い表現だなぁ」ということ。なんというか、一節一節、聴衆の耳に音をねじ込むようにして、有無を言わせず“聞かせる”かんじ。見得を切りながらリズムを崩したり、テンポを揺らしたりと、結構味付けは濃い目。
聴き終わった後は、なんだか脂の乗ったステーキをたっぷり一皿完食しました、といった感触。最前列で聴いていたから、というのも理由のひとつかもしれないけど、それだけではないだろう。
休憩を挟んだ後の「バッカスとアリアーヌ」は、バッカス(酒の神)が酔っ払い踊りを始める後半からが俄然面白かった。やっぱり、沸き立つリズムを空回りせずにバシバシ決めていくのが京響はお得意のご様子。何年か前に岩城宏之氏の指揮で聴いたストラヴィンスキーなんて今でも覚えているくらい素晴らしかったしね。
ラ・ヴァルスも後半の錯綜気味のリズムが楽しい。フランス的なモゴモゴした紗のかかった世界とはちょっと違うけれど、これはこれで魅力的だよ。前半の弦楽器の歌も、ストレートですっきりした甘さが良かったし。
本日も美味しゅうございました。
でもやっぱり…なんでショパンだったんすか?
07 September
2006
ホールは超満員
現在、大阪の御堂筋周辺では「大阪クラシック」と題して大小・有料無料様々なコンサートが開催されている。そして昨日・本日・明日は連夜、大阪フィルハーモニー交響楽団が異なる市内のホールで格安のコンサートを催すことになっている。
本日はシンフォニーホールでベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」の一本勝負。明日の市庁舎でのチャイコフスキーもいきたかったのだけれど、500円という価格と収容人数の少なさからか早々に売り切れてしまったのでチケットを入手できなかった。
いつもより遅い7時半開始ということで、私は会社帰りに立ち寄った。会場についてまず驚いたのは、見たことないほどのお客の多さ。客席後方にずらりと立ち見客が陣取っている。以前にこのホールで立ち見が出たのはヨーヨー・マの演奏会で見たことがあったが、その時よりあきらかに多い。
さらにお客の中で目立つのが、学校帰りとおぼしき制服の集団。同じ制服を着た十数人程の集団が客席を占めているのがいくつも見える。ブラスバンド部の練習が終わって皆で連れだって来たのだろうか。
そして、客席の一番いい席には、関淳一大阪市長の姿も。
少々異様な熱気のなか、大阪フィルと音楽監督の大植英次が登場した。
以前このコンビでベートーヴェンの第7交響曲をしたときもそうだったが、オケの配置は第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンを左右に配し、コントラバスが奥に一列に並ぶ古典配置をとっていた。
さて、ベートーヴェン初期の壮麗なシンフォニー「英雄」が始まった。
冒頭の第一主題から、大植氏はかなり強弱・緩急の落差を強調し、芝居っ気たっぷりに音楽を運んでみせる。力いっぱいマッシヴに押すだけではなく、パッと力を抜いて不意に優しい表情を見せたりするのが印象的。オーケストラもよく反応して指揮者の指示に食いついている。
最終楽章も濃厚な味付けで進んでいく。最終盤のコーダなんて、殆どコマ送りのようなスピード設定。しかし、高い集中力で音楽はダレない。むしろ、あのしつこすぎるフィナーレがギラギラ・セカセカせずに耳に入ってきて気持ちいい。表情付けは濃いが、熱狂しすぎないのがいい。
折からの曇天で湿度が高く、ホールの響きがちょっと悪かったのが残念だったけど、一曲だけでこんなに満足させてくれるなんて感激。
指揮台から大植氏が聴衆に感謝の言葉を述べ、
「これからも大阪フィルをどうぞよろしくお願いいたします!」
と呼びかけたのに満員のお客は割れんばかりの拍手の嵐。
アンコールとして演奏されたのは、シュトラウス兄弟の「ピツィカート・ポルカ」。途中でトライアングルの糸が切れてしまうというハプニングに見舞われつつも(大植氏は指揮をしながら条件反射的に指揮台から飛び降りてトライアングルの前まで走り寄り、「糸が切れてしまったようです!」と絶叫。会場は笑いの渦に)、和やかな会場の雰囲気に包まれて、大喝采のうちにコンサートが終了。
いい演奏会だった。
本日も美味しゅうございました。
15 September
2006
頑張ってCD探してみようか
指揮台の上から音楽監督の大植英次氏が
「今後も大阪フィルをよろしくおねがいいたします」
と呼びかけてからちょうど1週間。その言葉を聞いた聴衆の中には、「どれどれ、大阪フィルのコンサートにでも足を運んでみるか」と思ってくださった方もおられたのでないかと思う。
しかし、大阪フィル9月の定期演奏会の演目は、そんなオーケストラ・ビギナーを罠にはめて討ち死にさせるが如きスーパー・マニアック・レパートリー。もう、大フィルさんったらイジワルなんだから。
- ヤナーチェク 歌劇「死の家の記録」序曲
- シューマン チェロ協奏曲 (独奏:長谷川陽子)
- マルティヌー 交響曲第4番
指揮者はチェコ出身のベテラン、イルジ・ビエロフラーヴェク。そして、本日とりあげらる作曲家も、ヤナーチェクとマルティヌーは20世紀前半のチェコの作曲家。ここまでくると、どうしてチェロ協奏曲をドヴォルザークにしてチェコもので固めなかったのかちょっと不思議。なにゆえ、敢えてこの分野でもマニアックなシューマンをチョイスしたのやら。いや、別に不満はないんだけど。
さて、一曲めのヤナーチェク。私はヤナーチェクなんて「シンフォニエッタ」くらいしか知らない。ただ、ヤナーチェクはチェコで民謡収集を熱心にしたことでわりと知られていて、そういうことをした作曲家の例に漏れず(たとえばハンガリーのバルトークやコダーイ)、ややクセのある面白いリズムを持った音楽をかくひと、という印象がある。
それにしても、なんとまあ暗いタイトル。「死の家の記録」か。ドストエフスキーだっけか。
しかし音楽は“陰鬱”というよりは、なんだかサスペンス映画のタイトル音楽みたいで聴きやすかった。ほの暗く、しかしどこかヒロイックな主題はやはりリズムが印象的。なかなかいい曲じゃございませんか。
ビエロフラーヴェク氏の指揮も見事だ。さすがご当地物とでもいえばいいのだろうか、曲の隅々まで安定した磐石の演奏。それぞれの楽器の音の重ね方が非常に巧みで、オーケストラ全体が、ひとつの大きくてやわらかい音の塊に聴こえる。そしてその音色はどこまでも澄んでいて、暖かい。おそらく、すごくいい耳をしておられるのだろう。
2曲目はシューマン。独奏の長谷川さんは日本を代表する女性チェリストだ。最近では、NHK朝ドラ「純情きらり」のオープニング音楽でチェロ独奏を担当しており、タイトルバックに名前が出てくる。
シューマンの協奏曲は、この作曲家らしい、ちょっとモヤッとしたオーケストラの響きの中でチェロがロマンチックな歌を朗々と奏でる音楽。長谷川さんはこの曲を、スケールを広げすぎないようにしながら細やかに弾いていた。なんというか、音楽が自分の身辺を離れていってしまわないように気をつけながら、常に肉声で語ろうとしていた、とでも表現すればいいのか。じっくり聴いていると、ナルホド、と感じる。確かにやや掴み所のない曲ではあるので、こういったコンパクトなアプローチも有効なのだろう。
最後はマルティヌー。私はかろうじて交響曲第2番と第3番を聴いたことがある。どちらの交響曲でもオーケストラの編成としてピアノを加えて和音やリズムを補強していたり、かなり色彩的にオーケストラが響いていたりするので、「とても華やかな音楽をかくひと」という印象を持っている。どことなく、フランス音楽的な香りがする(コンサートの解説冊子をみてみたら、マルティヌーはパリに留学してルーセルに弟子入りしていたらしい。さもありなん)。
交響曲第4番も、冒頭、フワフワッと靄のように音楽が立ち昇ってくる様子がゾクゾクするほど美しい。その後の音楽も、独特な響きの感覚のもとに構築されたカラフルな音色の移ろいが心地よい。特に第3楽章など、ちょっと他には聴いたことのないような色彩感覚で、まるで空気がパステルカラーの絵の具で淡く色づけられたような印象さえ抱かせる。うわぉ、なんだ、この感覚は。
ビエロフラーヴェク氏の指揮も光っている。ヤナーチェクでも感じた音の重ね方の上手さがマルティヌーの音楽を最高に輝かせる。
これまで聴いたこともなかった30分以上の音楽が、一瞬の体験として過ぎていった。そしてその一瞬のうちに、マルティヌーという作曲家を好きになってしまった。
ビエロフラーヴェク氏、ありがとうございました。またなお一層マニアックなチェコ音楽の紹介など期待しております。
22 September
2006
場違い?
オーケストラというものは、この世でも最上級に贅沢な装置だと思う。一瞬で消えていく“音”のために、そして実利的にはなんの役にも立たない音楽のために、百人近い人間が一緒になって力を注ぐ。
そう考えると、その装置を、ただひたすら耳のご馳走のために駆使する「シンフォニック・ポップス」という分野は贅沢中の贅沢ということになるかもしれない。シンフォニック・ポップスにも細かくわけるといろいろなジャンルがあって、少し前の日誌で最近よく聴いていると書いた「映画音楽」はその代表的なひとつ。他にも、流行歌の編曲や、歌伴、アンダーソンやケテルビーといったひとたちが書いたオーケストラ作品(前者の代表作は「トランペット吹きの休日」、後者は「ペルシャの市場にて」)などなど。
このシンフォニック・ポップスを専門に扱うオーケストラというのもいくつかあって(通常のオーケストラがこのときだけ名前を変えることも多いけど)、代表選手がシンシナティ・ポップス・オーケストラ。そのオーケストラの創設者であり、指揮者である人物がエリック・カンゼルだ。そのエリック・カンゼルが来日するというので、映画音楽づいていた私は喜び勇んでチケットをとったのだった。フェスティバルホールは音響があまりよくないので、最前列の席を確保。
ただちょっとよくわからなかったのが、このコンサートのゲストで、香港の有名歌手だという全く私の知らない名前がクレジットされていたこと。なに歌うんだろ。
今日カンゼルが指揮する楽団は、スーパー・ワールド・オーケストラ。ベルリン・ロンドン・パリ・ボストン等、欧米の有名な楽団から何人かずつメンバーを出し合って編成したオーケストラだ。このコンサートでの楽団の編成は意外なほど小振り。室内管弦楽団程度といってよさそうだった。
- モリコーネ 「ニュー・シネマ・パラダイス」
- チェクナヴォリアン 「16のラブソング」
- アディンセル 「ワルソー・コンチェルト」(ピアノ:蔵島由貴)
- アンダーソン 「忘れられた夢」
- チェクナヴォリアン ピアノとオーケストラのための「ノスタルジア」
- 織田哲郎 唯獨你是不可取替 他4曲 (ヴォーカル:アンディ・ホイ)
午後6時半のフェスティバル・ホール。ボクのスターはタキシードに赤い蝶ネクタイ姿で現れた。
「おー、Erich Kunzelだよぉー。本物だよー」
内心大興奮。
冒頭のニュー・シネマ・パラダイスから、もう感涙モノだった。カンゼル氏、旋律の浮き上がらせ方がものすごく巧み。ただメロディを大きく歌うのではなく、背景のハーモニーや対旋律をしっかり意識させながら主旋律を前に出してくる。小編成オーケストラの見通しのいい響きも上手く利用されている。素朴な木管楽器の歌が弦楽器にかき消されず、切々と響いてくる。なんて素敵でお洒落なんでしょう。
2曲目の作曲家であるチェクナヴォリアンは、私はハチャトゥリアンなどを得意とする指揮者としてしか知らなかったのだけれど、「こんな音楽を書くのか…」と驚かされた。もう、30~40年前のイタリア映画につけられた音楽そのものじゃないか。
「うひゃひゃ、それ、まんまニノ・ロータじゃん」
「今度はモリコーネそのものじゃん」
「ヘンリー・マンシーニ?」
心の中でツッコミまくり。きっと、作曲家本人も意識して楽しみながら書いたんだろうな。初めて聴いた曲なんだけど、すべてどこかで聴いたことあるようなかんじで、その「聴いたことあるかんじ」が最高に楽しい。終曲だけは、作曲家の出身地であるアルメニアのダンスリズムで賑やかにフィナーレ。カンゼルは聴衆に向かって拍手を促し、その拍手も指揮するサービス精神を発揮。
素晴らしい演奏じゃないか、と嬉しくなって大きな拍手を送ったのだけれど、あれ、なんだか会場の拍手はカンゼル氏の姿が舞台袖に消えたらすぐに止んでしまう。あのぅ、みなさん、もう少し拍手してアンコールねだらないの? れれれ…ヘンだぞ。
後半は、映画"Dangerous Moon"(どんな内容か知りまへん)のテーマ曲として作曲された単一楽章のピアノ協奏曲「ワルソー・コンチェルト」。私も大好きな曲で、たまにiPodで聴いたりしているのだけれど、コンサートで聴ける日が来るとは思いもしなかった。しかもカンゼルの指揮だよぅ。
独奏の蔵島さんはとても綺麗なピアノの音色で、アディンセルの芝居がかったメロディを端正に奏でる。カンゼルは、各楽器の音量バランスや旋律のニュアンスを「これしかない」というバランスで整理して、聴衆の耳に最高の心地よさでサウンドを流し込んでくる。すげー、幸せだよぅ。
続いて蔵島さんのピアノと一緒に演奏されたアンダーソンとチェクナヴォリアンも、最上級の耳のご馳走。特にアンダーソンの3分そこそこの楽曲がたまらなくロマンチックで心を奪われた。アンダーソンというと、うんざりする程無邪気でオプティミスティックなアメリカン・ミュージック、というイメージがあったけれど、この曲はアンダーソンらしからぬシットリとしたピアノのシングル・トーンで始まり、滑り込んできた弦が徐々にリズムを立ててくる感覚がなんとも甘美で気持ちいい。
ところが、そんな美しい演奏にも拍手はやっぱり淡白。アンコールをねだる様子もない。…こりゃ、要するに会場は香港スター待ちということなのか…?! やばいよ、カンゼルで大興奮してるおいら、もしかして場違い? よく見ると、私以外の最前列の方々、花束とか持ってきてるよ?! うげげ。
さぁて、皆様お待ちかねのアンディ君登場。出てきたのは、色白の爽やかな青年でありました。
周囲から一斉に女性の黄色い歓声。およよ、何人かの女性がネオン棒まで持ち出したよ。名前を書いたプレートも。
アンディ君、英語で挨拶。さらに響く歓声。うわぁ、御免なさい、最前列でおいらだけテンションが違って。
結局、アンディ君は中国語で歌を5曲披露した。1曲目は「世界中のだれよりきっと」(中山美穂だっけ?)をバラード調にアレンジしたもの。へぇ、この曲、こんなにメロディーライン綺麗だったんだ、と驚いた。ただし、私は中国語はこれっぽっちもわからない。アンディ君、緊張気味なのかあまり声がでておらず、音程もやや不安定。むむむ。
あとはすべて中国製の歌。3曲目くらいから、リラックスしてきたのだろう、かなり安定してきた。中国語がわかればもっと楽しめたのかもしれないな、と残念に思いつつも、耳がいくのは、やっぱりカンゼル大先生の指揮。はじめて演奏するスコアだろうに、なんて上手く鳴らすんだろう。効果的な音楽の演出方法を知り尽くしているんだろう。
あの、だからさ、アンディ君頑張って英語でしゃべってるのに、客席から中国語で呼びかけて、勝手に会話を始ようとするのやめてください…。
彼が予定された5曲を歌い終わった後も拍手が続く。再び彼が舞台に姿を現すや、何人かの女性が舞台前に…つまり私の座っている横に走り出してきた。耳が痛くなるような絶叫で彼の名前を呼ぶ。
「うわ、これはヤバい」
と身の危険を感じた私はすばやく席を立って、彼女達の間を抜けて出口の近くまで避難した。そこで後ろを振り返ると、ちょうど私の座っていた席のまん前で、アンディ君が何人かの女性に袖を引っ張られて困惑しているのが眼に入った。すげぇ…。
面白いものを見たなぁ、とこれはこれで満足しながら、私は帰り道でタワー・レコードに寄り、「Forgotten Dream」が収録されたアンダーソンの名曲集を買って帰った。今、この文章はそれを聴きながら書いている。
24 September
2006
さ…サインくださいっ!
ピアニストがあまりに美人だったので素晴らしい演奏をなさったので、久しぶりに終演後、ロビーで買ったCDを手に楽屋口に走った。サインをもらって「ありがとうございます!」と言ったとき、自分でもびっくりするくらい笑顔になってしまったのはちょっと恥ずかしかった。それにしても、モデルのような長身と、くっきりした顔立ち、そして息を呑むようなピアノの才能。いやはや、世の中って不公平ですね。(ごめんなさい、いきなり陳腐な感想で)
今日は、秋分の日恒例の、オーケストラ・アンサンブル金沢による大阪定期演奏会を聴きに行ってきた。私にとっては3年連続かな。指揮者は当初、このオーケストラの音楽監督である岩城宏之氏が予定されていたのだけれど、今年の6月に帰らぬ人となってしまった。ということで、代打は井上道義氏。
- モーツァルト 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」序曲
- モーツァルト ヴァイオリン協奏曲 第5番「トルコ風」 (独奏:バイバ・スクリッド)
- モーツァルト ピアノ協奏曲 第21番 (独奏:菊池洋子)
- モーツァルト 交響曲 第35番「ハフナー」
盛沢山な、オール・モーツァルト・プログラム。
井上氏の指揮に触れるのはおそらく3度目。この方の奏でる音楽はかなり独特だという印象をもっている。音楽の冒頭から掉尾までに一本の太い“うねり”のようなものが貫いているのを強く感じさせるからだ。聴いていると、あっという間に音の渦に巻き込まれて、その後はぐいぐいと海流に流されていくが如く音楽の“流れ”を体感する。他の指揮者からはあまり聴いたことのないエネルギーが漲っているので、私は好きだ
一方、オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)は、私の個人的な印象で言うと、透明な音色、正確なアンサンブル、どちらをとっても国内でピカイチのオーケストラだと思う。これまで4~5回は聴いたが、その上手さたるや、いずれもため息が漏れるほどだった。特に、4年前にオリバー・ナッセンの指揮でラヴェルの「マ・メール・ロア」を聴いたときのこの世のものとは思えない美しい響きなど、もしかしたら一生忘れられないんじゃなかろうか。
その両者の顔合わせによるモーツァルトは、期待にたがわず、美しく、熱く、そして繊細だった。
一曲目はドン・ジョヴァンニ序曲。開始の緊張感あふれる和音ひとつで耳を鷲掴みにし、聴き手を音のドラマの只中に立たせる。あとの物語の進行はまさに一気呵成。テンションをピンと張り詰めたままで、密度の高い音の流れが一段と熱を帯びてゆく。重厚な感触であると同時に、さすがはOEK、響きはどこまでも透明で、しかもどの声部を切り取っても隅々まで瑞々しい。指揮者とオーケストラの長所が驚くほど上手く噛み合っているようだ。
続くヴァイオリン協奏曲の独奏者は、ラトヴィア生まれの若手。私にとっては初めて聞く名前だった。
彼女の持ち味はなんといっても繊細な弱音の美しさといってよさそうだ。モーツァルトの書いた流麗な独奏部を、まるで室内楽を奏でているかのように細やかな表情のコントロールで描いていく。その滑らかな肌触りにはうっとりしてしまう。ただ、ところどころ音が優しすぎて客席からは聴き取りにくい部分もあったが、別にそれが瑕という程ではないかな。
もっと経験を積んでいけば、更にすごい演奏を聴かせる演奏家になりそうな予感。
休憩のあとは、
菊池洋子さん独奏でピアノコンチェルト。菊池さんは私とほぼ同い年。2002年にザルツブルグのモーツァルト国際コンクールを制して注目された。彼女は、昨年夏にOEKと
今日演奏する曲のCDをリリースしている。
彼女をライブで見るのはこれで2回目だ。前回は
別のオーケストラとラヴェルの左手協奏曲を演奏しているのを聴いた。意外なほどパワフルな音色と、逞しい演奏スタイルに圧倒されたのを覚えている。すらりとした長身、小麦色の健康的な肌と美しい黒髪を備えたアジアン・ビューティなお姿ももちろんながら…。
CDは未聴だったので、前回のラヴェルでうけた印象と重ね合わせながら、「どんな演奏になるんだろう?」と楽しみにしていた。
で、聴き始めるや否や、たちまち惹き込まれてしまった。
力強いピアノのタッチは、さらに磨きがかかっているように聴こえた。ひとつひとつの音が鋼のように強靭で、しかも底光りしているかの如く重厚な光を発している。いくぶん早めのテンポでクッキリと描かれる音楽は独特な透明感をたたえていて、巧みに演出される音楽的ニュアンスのうつろいも美しく、爽快だ。ふにゃふにゃした下手なロマンチック風情なんて一瞬で吹き飛ばされてしまいそう。菊池さん、すげぇカッコいいよっ。
井上氏の指揮やOEKとの相性も非常にいいようで、三位一体になって魅惑的な音楽をつくりあげている。
アンコールとして菊池さんはモーツァルトのピアノソナタ15番から第三楽章「トルコ行進曲」を演奏。目が覚めるほど硬質な音色で高速に奏でられるトルコ行進曲は、一言でいえばクール・アンド・ビューティフル。とってもしっかりした個性をもった演奏家だということがよくわかった。
前のヴァイオリニスト、スクリッドさんにしても、この菊池さんにしても、それぞれが自分の長所をよく捕らえていて、しかもしっかりそれを武器にして演奏できているところが、すごく素敵だ。
最後はハフナー交響曲。冒頭の序曲と同じく、透明感と熱っぽさを上手く両立させた素晴らしい演奏。本当にこのオーケストラは上手い。
アンコールにこたえてモーツァルトの行進曲を演奏する前に、井上氏が舞台から挨拶。岩城氏への追悼のことばを述べた後、「去年も岩城さんは大阪定期に来られず、かわりに外山雄三さんが来たはずですが…」と言って、ちょっと外山さんの物真似をしてみせたりするサービス振り(何人がわかったから不明のマニアック物真似でしたが、似てました)。
来年も絶対来ますよ。OEKさん、楽しみにしてます。
08 October
2006
若手俊英に期待大
現在のクラシック音楽界で次代のスター候補、ということになると、まず間違いなくこのひとの名前は挙がると思う。ダニエル・ハーディング。30歳。今日はその彼が手兵のマーラー・チェンバー・オーケストラと来日しているというので聴きにいってきた。
彼の指揮に触れるのはこれが初めてではない。数年前に同じオーケストラと来日したときも聴きにいった。マーラー・チェンバーはとてもメンバーの若いオーケストラで、ハーディングを含めほとんどみんなが同じ年代なのではないかとみうけられた。演奏も、才能あふれる新進気鋭たちが集って「自分たちの音楽」を創っていこうと夢中になっているような、フレッシュな熱気がむんむんと渦巻いていて、とても刺激的だったのを覚えている。
- モーツァルト 交響曲第6番
- モーツァルト ピアノ協奏曲第20番 (独奏 ラルス・フォークト)
- ブラームス 交響曲第2番
ハーディングの指揮とマーラー・チェンバー・オーケストラの表現力は、数年前よりもさらに進化しているのは明らかだった。彼らの奏でる音楽は、すでに単なる「音」を越えて「精神」そのものであり、殆どその精神世界を表現する「語り」といってもいい。言葉の理屈を飛び越えて、聴き手の心になにかを悟らせる。驚くほかない。
比較的シンプルなモーツァルト幼少期の作品から、その演奏の緻密な表現力と、結果としてきこえてくる音楽の自然さ、そして描かれる世界の普遍性にノックアウトされた。
部分ごとに取り出してみてみれば、かなり極端なテンポ設定(特にしばしばみせる、止まりそうなほどのスローモーション)をしていたりする。しかし、それがちっとも奇異に聞こえないばかりか、ものすごい説得力を宿しているのが驚異的だ。いやはや、なんて才能。
続くピアノ協奏曲では、オーケストラの巧みな語り口に加えて、フォークト氏のピアノが聴かせる表現力に圧倒された。ピアノから、驚くほど多彩な響きを引きだしてみせる。柔らかな囁きもあれば、決然とした強い音色もある。部分ごとどころか、一つの音の中でさえ表情がうつろっていくのを感じる。
アンコールは、モーツァルトのトルコ行進曲。少し前に聴いた菊池洋子さんとはまさに対照的な、ソフトでセンシティヴな演奏。これだからいろいろな演奏家を聴くのは面白いんだよな。
休憩後のブラームスも忘れがたい体験だった。これも部分的には相当極端な表現を駆使しながら、全体の印象は高い普遍性を感じさせる。ブラームスの作品の中ではどちらかというと地味な印象のある第二番だが、ハーディングの丁寧で濃密な演出で聴くと、ひとりの成熟した人間の内面を反映する美しい風景画のように思えてくる。ブラームスという作曲家がいかに巧みに、しかも無駄なく音楽を書いた芸術家であったかということがよくわかる。
アンコールはドヴォルザークのスラヴ舞曲。やはり細部にまで豊かな表情の宿った密度の濃い演奏だった。演奏する方も指揮する方も桁外れの能力だな。
ハーディングが次代のクラシック音楽界で大きな役割をになっていくであろうことは間違いなさそうだ。同世代に属する音楽ファンとして、楽しみにしながら見守っていくことにいたしますね。大いに期待してますよ。
09 October
2006
北欧の“自信”を聴く
去年の中頃だったろうか、北欧音楽に凝った時期があった。あるときシベリウス(フィンランド)の音楽が妙に心に響いたのをきっかけにして、グリーグ(ノルウェー)、ニールセン(デンマーク)などにも手を伸ばして集中的に聴いていた。彼らの曲を聴いていてなによりも強く感じるのは「独墺とは全く異なった響きへの感覚を持っているなあ」ということで、それぞれの作曲家によってもちろん個性はあるものの、やはり“北欧”にはひとつの共通した感性があるように聴こえたのが面白かった。
その北欧音楽の分野で近年注目を浴びている指揮者と楽団、オスモ・ヴァンスカとフィンランド・ラハティ交響楽団が兵庫県立芸術文化センターで演奏会を開いたので、聴きにいってきた。演奏曲目はまさに“ザ・北欧”。
- コッコネン 風景~室内管弦楽のための
- グリーグ ピアノ協奏曲 (独奏:ユホ・ポホヨネン)
- シベリウス 交響曲第2番
1曲目の現代音楽を除くとまさにド直球なので、北欧音楽ファンとしては、もうちょっとヒネって欲しいような、まあこれはこれでいいような、複雑な気分。
指揮のヴァンスカ氏を聴くのはこれが2回目。前回は、東京のあるオーケストラが彼を指揮にむかえてベートーヴェンの交響曲とニールセンの交響曲を演奏したのを(東京出張のついでに)聴いた。珍しいニールセンの演奏も大満足だったのだが、とにかく愉快だったのがベートーヴェンの第5交響曲。徹頭徹尾北欧の感覚で描かれたベートーヴェン(ヴァンスカ氏も相当意識的にやっていたに違いないと思うが)が新鮮すぎる。すべての音が、薄明の中からフワッと浮き上がってきて、また薄明の中に霞掛かって消えていく。その水彩画的な儚さで、ベートーヴェンの“運命交響曲”が綴られていくのだ。「そんなんアリか?」と思いながらも、なんだか聴き入ってしまったのをよく覚えている。
今日の演目では、一曲目がまさにその北欧の美学の最たるものだった。厚塗りではないが、常に仄かな色彩感で空気を染める。繊細さが突き詰められたようなピリピリした感覚に神経を刺激される感触が気持ちいい。
続いて、グリーグのピアノ協奏曲。有名な曲なのだけれど、実際の演奏会で取り上げられることは意外と少ない。独奏のポホヨネン(いかにも北欧の名前…)氏は二十歳代と思われるヒョロリとした青年で、北欧のいくつかのコンクールで受賞経歴をもつ新鋭らしい。
派手なことで知られる第一楽章冒頭から、彼の出す音の美しさに驚いた。ものすごく張りのある鋭い音で、まぶしいばかりの光を発している。多少大袈裟なグリーグの協奏曲との相性もあっている。華のあるスターが銀幕で大立ち回りを演じているのを喝采しながら見ているような気分で楽しめた。あの美音と瑞々しい感覚を抱いて、今後このピアニストがどう成長していくか注目だ。
休憩を挟んで、シベリウスの代表曲、交響曲第2番。
個人的なことを言うと、シベリウスの交響曲の中では第2番は(というか第2番だけと言ったほうがいいかも)それほど強い魅力を感じないのだけれど、明確な高揚感があるためか、演奏機会は比較的多い。そんな人口に膾炙した曲だけに、北欧音楽のスペシャリストたちがどんなふうに料理するのか興味あるところではある。
ヴァンスカ氏は、意外なほどに音の出し入れをハッキリさせて、カッチリとした響き、カッチリとした旋律を前に出してきた。つまり、さっきまで聴かせていた“北欧的音響”とは違う。なるほどね、第2番はこういう演奏のほうがいいのかも。しっかりと足場を固めて前に進み、終楽章での感情の奔流へと持っていくんだな。
「北欧音楽を聴いたぞーっ」という印象ではないけれど、シベリウスの演奏を体得している人たちのエネルギーに圧倒されたかんじで、お腹がいっぱいになった。やっぱり、シベリウスは彼らにとって「自分たちの歌」なんだろうな。なんだか羨ましい。
アンコールは予想通りグリーグの「悲しきワルツ」。やっぱり今日は“ザ・北欧”だわ。
11 October
2006
2月のマーラーはどうなることやら…
なんと大阪フィルは、定期演奏会でも立ち見が出るようになってしまった。1700席あまりのホールに更に補助席を入れて、2日間に渡って開催しているにも関わらず、だ。こんなこと、創設者の“現人神”朝比奈隆 御大の在任時でもなかったんじゃあるまいか。
本日の演奏曲目が、先日の「大阪クラシック」で大阪市庁を満員にしておこなわれた最終演奏会の演目、チャイコフスキーの交響曲第4番に続く交響曲第5番だから、というのもあるのかもしれない。それならそれで、確実にリピーターを増やしているということであり、やはりすごいことだ。
- ブラームス ヴァイオリン、チェロと管弦楽のための協奏曲 (Vn:長原幸太 Vc:秋津智承)
- チャイコフスキー 交響曲第5番
指揮はもちろん大植英次氏。
ブラームスの二重協奏曲で独奏をつとめるのは、大阪フィルのヴァイオリンとチェロの首席奏者だ。押しの強い長原氏のヴァイオリンとやや控えめな秋津氏のチェロの組み合わせが少しバランス悪いかな、と思うところもなくはなかったけれど、あまり演奏されることのないブラームスの作品を充分楽しませてもらった。最終楽章のユーモラスなリズムパターンが演奏会終了後もしばらく頭を離れなかったくらい(夜道を、ツンタカ・ツンタカ・ツンタカタッタと口ずさみながら帰ったりなんかして)。
とはいえ、なんといっても今晩の白眉はチャイコフスキーの5番。期待されたら、その期待に100点満点以上で応えてみせる、それが今の大植&大フィル。驚異的な集中力と圧倒的な燃焼力で聴衆の耳を虜にする。第4楽章の締めくくりなど、そのドラマチックさといったら、わかっちゃいるけど痺れちゃうね。
定期会員になっててよかったな。
23 October
2006
関西弁のオーケストラ
梯剛之さんという全盲のピアニストがいる。私と同い年の1977年生まれ。ショパンコンクールで準決勝まで残ったり、ロン・ティボー国際コンクールで準優勝したりして注目を集めている。
何年か前に彼がある外国のオーケストラとベートーヴェンの初期協奏曲を演奏するのを聴きにいったことがある。とにかく、その音の美しさに惚れ惚れした。響きというものに対して、やはり我々とはちょっと違った独特の鋭敏さがあるのではないかと感じた。
ただ、あまりに真っ白で屈託のない美音であるがために、かえってレパートリーが限られてしまいそうだな、とも思ったのだった。そのとき聴いたベートーヴェンの若書きの作品はとてもマッチしていたのだけれど。
で、今日はその梯さんが大阪センチュリー交響楽団とショパンの第一協奏曲を演奏するというので聴きにいってきた。指揮はこの楽団の主席指揮者、小泉和裕氏。
- ショパン ピアノ協奏曲第一番
- ドビュッシー 小組曲
- ストラヴィンスキー 火の鳥(1919年版)
梯さんのピアノの音はやはり非常に美しかった。また、今日聴いていて気づいたのは、彼の奏でる音楽表現の驚くほどの清廉さだ。ここで見得を切ってやろうとか、甘い歌で聴衆をとろかしてやろうとか、そういう邪念(?)がまったく感じられない。しばしば、あまりにあっさりとした語り口で音楽が流れていくので、かえって新鮮な感触すらおぼえる。
しかし、だからといって単に淡々としたピアノなのかというと、決してそういうわけではない。テンポは結構個性的な動きを見せるし、表情の繊細な変化もある。ただ、その表現が出所が徹底して内面的なのだ。ショパンのコンチェルトでこんなに内向的な演奏は想像だにしたことがなかったなぁ。
終演後は、方々から
「見えないのにすごいなあ」
とささやく声が聞こえた。それは事実ではあるけれど、彼くらいのレベルの人にそれはむしろ失礼だと思いますよ…。ただし、今日は少しミスタッチが多かったのが残念かな。結構波のある演奏家なのかもしれないな。
続いてはドビュッシーの小組曲、管弦楽版。ひとつひとつの曲が独立してアンコールでとりあげられることはあっても、まとめてプログラムにあがるのは珍しい気がする。そんな曲をどうして定期演奏会ですることにしたのか、その意図は定かではないが、大阪センチュリー交響楽団の演奏はとにかくとっても面白かった。
この曲特有のもやーっとした響きはバッサリ切り捨てて、とにかく太く旋律を歌う。フランスの楽団で聴き慣れた耳にとってそれはほとんど「笑撃的」といってよいくらい。曲の全ての部分でなんらかの旋律を拾い上げ、力いっぱいに、楽しそうに朗唱する。その徹底振りが痛快だ。聴いていてニヤリとしてしまう。
休憩を挟んでの「火の鳥」も同じ系統の演奏だった。これが小泉さんとセンチュリーの個性なんだろう。フィナーレの大爆発など、なんて快活なんだろう、と面白くて仕方なかった。同時に、低弦と打楽器がしっかりしているので、お祭り騒ぎになっても浮つかずに安定感を保っているのが素晴らしい。
大阪ならではのノリのよさ、といってもいいのかもしれない。なんだろう、ベテランの芸人さんが面白い話を関西弁で次々と繰り出しては会場を沸かす、そんなかんじ、なんて比喩は不穏当かしらん?
定期演奏会なのにアンコールがあって、ショスタコーヴィチの映画音楽「馬あぶ」組曲から「ロマンス」。サービス精神も旺盛なのねん。
ほんま、おもろいオケでっせ。ほな、また来させてもらいまっさ。
Posted by
horita at
22:00
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